2月3月のいそがしさと 何度か目の結局のところ

 ・嬉しい予定、悲しい予定がぎっしり詰まっていて、私は私自身の肉体を西へ東へとせわしなく移動させていた。場所と空気と周りの人間がザッピングのように次々切り替わり、私の顔色も声色もパラパラと変化した。その春先辻風の忙しさの真っただ中にいて、私は気持ちをこまめに、無風の腕の中に囲っていた。心の一角に、その無風の場所にただ置いた。

 しかし状況に引きずり回されてはいけない。ひとやすみひとやすみ。一旦座る。目をつぶる。水をひとくち飲む。カメラを構える。ファインダーを覗いて客観視。「(暇な時こそ気持ちを張って)あわただしい時こそ心を平穏に保つのがよい」、ということで落ち着こう。そして俯瞰で見ること。乖離的に見ること。この人は今こういう場にいるんだな。二本の足で地面に立つ私と、それを傍観する私。

 

 ・この時間にもいつか終わりがくるのだな、こういう時間はいつか無くなるのだな、と思うことがあった。

 ・本当に小さな――5歳ぐらいだったはず――子どもの頃に夢に出てきた川を見に行った。川は実在の川で、夢は悲しい夢だった。小さな私は双眼鏡を抱え持っていた。健気でか弱き壊れゆくもの(存在)との別れがテーマだった。現実の川は遠い昔夢で見た時よりも浅くて色が薄かった。「健気でか弱きもの」は未だに私をどこかから慕っていてあるいは待っていてくれているのだろうか。それか、今はかたちを変えてそばに在ってくれているのだろうか。

 

 ・田舎に住もうが都会に住もうが1日は24時間で、楽しい時は楽しくて悲しい時は悲しい。自分自体の存在が物理的に大きくなるわけではないのだし働いて食べて寝てする営みの、本質的な違いは(都会田舎には)無いのだろうとまた思った。

 ・自動車というものは若い男を魅了する、命を賭ける価値があるものだという神話は未だに田舎・郊外では強力な現実だ。都会の、自動車を持てない若者は何に魅了され命を使うのだろう。夜の世界だろうか、女だろうか。いずれにせよそれは夢や幻の同類である気がする。その幻はガソリンのように鮮烈に残る匂いを残すのだろうか。

 

 ・感情とその動きに対して真摯であろうと思い、突き放した誠実さを持とうとまた思った。そういう態度が他者に対する思いやりや慈しみだと私は考えている。どこまでも真摯でありたい。そう自分に願い続けて要請し続けることが私の生き方なのだろう。失いたくない。