下書き供養

 

 セロトニンショックのこと。
 すごく幸せなことのあとにガクンと気分が落ち込むんだけど、これを勝手にセロトニンショックと名付けていてですね。イメージとしては血糖値スパイクとかヒートショックに近いものがある。単に脳内の幸せ交通量が平常時に戻っただけ、のはずなのにひどく憂鬱になる。

 「多くの人の気分の浮き沈みが+50から-50の範囲で起こっているとするなら、私のそれは-80から+20だ」みたいな思い込みがあってですね。なんというか、憂鬱なのが平常で、わーい!ってなるのが非日常という価値観でいる。世界中の不幸が自分の背中に乗っているみたいな気持ちになることとか自分に同情することこそないんだけど、肩に乗った黒い雲がとけて黒い雨になった液体が胃のあたりにすこしずつ溜まっていってるなあ、みたいな感覚がずっとある。

 

 

 熱量の差のこと。

 2人人間がいて相手を思う熱量に差があると、多い方はしんどいよねってまた思うことがあった。でも世の中は、どうでもいい奴に好かれて、逆に好きな人にとって自分はどうでもいい奴……みたいな悲しい仕組み。これ自分のまわりだけ?ムカデ人間みたいだよね。いや、ムカデ人間みたいではないよね。

 大道寺知世ちゃん「わたしには大好きな人が幸せでいてくださることがいちばんの幸せなんです」←人間が出来てるとかいうレベルじゃないでしょ、アニメじゃなくて仏典か何かの登場人物のセリフでしょこれ。大道寺知世ちゃんは解脱確定ですね。

 ある人はあの人が120好きなのに向こうは30しか好きじゃない。二者間のうち交換出来なかった熱量はどこに行くんだろう。電熱線のように視線の温度になるのか、もしかしたら電子レンジに吸い取られて肉まんを温めたりもするのかもしれないけど。その霧散する熱量に執着することは誰にとっても不幸な結果を招くことと思う。

 

 

 どうも涙もろくなった。歳のせいで……とか言って小さめの笑いを取りにいこうとしているが、定年もまだまだ先なので歳のせいではないことは明白。

 些細なことでも悲しさが、実際よりも何倍も大きく見えて(特定の他者が不憫に思えたり、まず不幸に見えない特定の他者に幸せに暮らしてほしいなどと強く思ったり、愛しているものがそう遠くないうちに損なわれるように思えたりして)涙がぽろぽろこぼれてくる。前頭葉の働きが弱まっているのだ。弱まっている原因はアルコールや薬物などによる一時的なものではないし、認知症とか鬱病とかそっち系に違いない。

 「いつから死にたいと思うようになりましたか?」の問いには、「そうですねえ5歳ぐらいからでしょうか」と答えるような。状態として病んでいるというより構造として病んでいるみたいな自己認識がある。しかし、だからこそ、生まれついてのネガティブ人間であるからこそ、クオーターライフクライシスやミッドライフ・クライシスに苛まれないという強みがある。肉がないから切られないけどこっちから骨は切れちゃうみたいな。色々なものを諦めるとそこで時間や価値観を凍結できる。

 


 ・このところ、真実を知りたいという思いが強い。

 ・私自身の血液を顕微鏡で見せてもらった。アルファベットパスタの小さいやつがトマトジュースの中を漂っていた。「A」と「B」のふたつだけだった。そういうわけでAB型ということになるらしかった。

 

 

 ・今いる環境は生まれたときにいるはずだった環境ではないのかもしれない。日常的に接している人々は本来出会うはずではなかった人なのかもしれない。私の顔は親の顔に似ていない気がする。生き別れのきょうだいがいて、その人と巡り合えないまま人生が終わってしまう気がする。顔も身体つきも自己同一性を保証していない、性格よりももっと原初的な、「反応」のみが私が私たらしめる要素なのかもしれない。「あ」と言われたら「い」ではなく「あ」と返す、あるいは「ぽ」と返す、までに至るプロセスが私自身なのかもしれない。

 ・世の中には「おれは本当はこんなところにいるべき人間ではないんだ!」と仕事をやめていく人間がいる。彼らが思う彼らが本当にいるべき場所は、多くの人に注目されて多くのお金がもらえて美人にちやほやしてもらえる、日が当たる場所なんだろう。ところで、私は本当はどこにいるべきなんだ?どこに置かれるのが適切なのだ?


 ・「自分は意識としてしか存在していないのではないか」「本当は肉体を持っておらず、感覚でしかないのではないだろうか」という疑問がある。その疑問を打ち破ることが出来るのだろうか。日々起こるあらゆる出来事は私の反応を引き出すために入力された刺激に過ぎないのではないだろうか。つまり「水槽の脳」は正しいという気がしてくるわけである。睡眠不足や離人によって引き起こされる非現実感や違和感は、実は意識が次元の隅に触れている証左であり、覚りとでも言えるような状態なのではないだろうか。

 ・結局のところ「快/不快」の二元論のみが真実であるのではないだろうか。

 


 学生時代(のある時期)みたいに、いいちこのお湯割りか氷結の梅で、抗不安薬をパラパラ飲んで、何もかもが文字通りどうでもよくなりたい。当時はそうやって命を粗雑に、時間の流れに乗せ続けていた。

 抗不安薬をパラパラ食べたあとの感覚というのは、なんとも言えなかった。すきっ腹にウォッカを落とした時みたいにやけにアルコールが回りすぎた時みたいに視界と感覚にずれがある感じ。究極に重たくなったパソコンのマウスポインタみたいに、ワンテンポもツーテンポも遅れて、まるで自分の頭部の残像が見えそうなぐらい、ぐらりぐらりと世界が揺れる。色々な思考が滑っていく。しっかりと踏みしめたはずなのに、スキー板が雪の地面をズズズとゆっくり滑っていくように。

 50ミリリットルのウォッカでさえ、空腹だというだけで酔いが増すのだから不思議だ。お腹に何も入れなければ早く深く酔えると(飲酒量が少なくて済む分)コスパがいい気がする。それでも(アルコールとは違って、薬を食べまくった時のフワフワには)抗不安の効果によるものなのか絶対的な安心感があった。アルコールと違って胃がやける感じもしないし、息がアルコール臭くなるわけでもない。鼓動が強く早くなることもなく、火照ることもない。抜ける時も徐々に徐々にではなく、スッと消えていく。

 (いま飲み過ぎていて、)真っ直ぐ歩けない。コのウイルスが流行る前、夜の巷でよく見た(路傍に酔いつぶれる)人間たちもきっとこんな世界認識だった(はずだ)。視界の下両隅から生える手が壁をさぐりさぐりしている。離人感に似た現実感の無さ。

 脳味噌がとろけていて嫌なことは考えようとしてもうまく考えられない。不安を生む事実と、不安という感情の間には羽毛布団が何枚も何枚も挟まっているみたいだ。「うまくやれるのかな」「失敗したらどうしよう」みたいな思考には字面としてのみ頭に浮かび、やはりそこには実感が伴わない。*1

 


 小さな子どもの頃から、いま寝入ってそれから二度と目覚めなかったらいいのにって思ってた。ティーンエイジャーの私、飛行機とか落ちてきて全部台無しにしてくれねえかなって思ってた。しばらくしたら個人輸入の安定剤と缶チューハイで痛みを和らげていた。生きることそのものに含まれる不可分な痛みを。いまの私、気付いたら悪い大人の良い見本になってる。フレンチクルーラーを合計65535個食べたらその時点で即死する、みたいな人生の裏パラメーターを探してる。生きることに前向きになれる奴とそうじゃない奴がいて、社会は前者を主役として稼働している。ソーナンスは「がまんポケモン」、その苦悶の表情は仏典の登場人物をほうふつとさせる。生活は敵。時々無性に生活が憎い。ホワイトキューブの中にいたい。生活感のない空間に在りたい。髪が伸びる、爪が伸びる、生き物であることが憎い。完全な球体になりたい。私は反生活主義者。

 

*1:この文章は酔っぱらっているときに書きました。翌日以降のシラフ時に括弧部を加筆し少し推敲を加えました。