お気持ち写真

 

 もう我慢できません。(中略)たまたまお気持ち写真が氾濫しているの過ぎないのですが、(略)こうでてくる風景がお気持ち写真じゃ我慢できません。(以下略)

 ずっとそういう苛立ちが私の中にあります。リロードするたびに新しく目に入る目新しさのない画像。インターネットのお写真、ゴミデータ。もううんざりです。低低(ひくひく)解像度の感情をポエムと抱き合わせにして押し付けてこないで欲しい。

 だいぶ前にテレビで芸人が「カメラさげてベレー帽被った女は空、ネコ、ちっちゃいサボテンしか撮らない」みたいなことを言ってた。確かに当時そういう人が多かった。私はこの文章で量産型宮崎あおいみたいな女性を嘲りたいわけではない。だけど言ってることは近いかもしれない。私が書き散らしたいのは性別に全く関係なくそういう人種は未だに沢山いるということ、そして量産型宮崎あおい大発生時代から基本的に進歩がないということ、何より個人的に超うんざりしているということだ。そういう写真は今は「お気持ち写真」にカテゴライズされる。

 

 お気持ち写真というは頭スカスカの人間が自己表現をカメラにさせた結果生み出されたゴミ画像のことです。限りなく「エモ写真」の同義語に近い。この丁寧語「お」には、それらがあまりに稚拙で自意識過剰であることを揶揄する意味合いがある。「児戯に等しい」なんて言い回しがありますが、はっきり言ってその程度。サブカル文脈に片足突っ込んだような大学生がやるならまだ可愛いものの(むしろ彼ら彼女らはこれが本業みたいなとこある)良い歳してやってる人間には目も当てられない。あらゆる感情がエモの二文字に単純化されている、ふわっふわの世界観。何の恨みもないけど単純にムカつく。別に人様が何をどう撮ろうが自分には関係ないのにね。先に知性を失ったのは撮る側なのか見る側なのか。ニワトリとタマゴじゃないけれど。

 

 なんか自分の中でこう写真の情みたいなものを否定する向きがある。どうしてそうなったのかは分からない。防犯カメラみたいに撮りたい。じゃ勝手に撮ってろよって話なんだけどここまでお気持ち写真が跋扈してると流石に息苦しさと憤りを覚える。誰かが演歌という言葉で持って写真の情を揶揄していたのを思い出す。お気持ち写真は演歌ほどの湿度はないが自閉的でいて溢れるほどの自己愛に満ちている。

 カメラは撮ったものしか写らない。ただの暗い箱。気持ちが起こるのは人間の心の中。その定立にかえりませんか。