2022年10月のつぶやき

 

 ・自分のなかにいる子どもがずっと、おもちゃを欲しがっている。KSC M11A1、ロボット魂の量産型ガンタンクリック・ドムⅡ、221系Nゲージもののけ姫ZIPPOなどなど。

 

 ・またしてもお香立てを買ってしまう。長さ2,3センチほどの、ドアストッパーを変形させたような、ここちよいかたち。*1 お香立てとか香炉は集め出してしまうとキリが無さそうで怖い。

 

 ・このところメルセデスベンツのCLAがやけに目につく。このことには何かの意味があるのかもしれない。幸せのサインかもしれないし、いやがらせのほのめかしかもしれない。それは白だったり黄色だったり。ベンツにはあまり興味がないし詳しくもないけど普通にかっこいいクルマだと思う。ただ、私はすぐさま考えてしまう、これが手に入ったところで大きく人生が変わるとかどんどん好転していくということはないんだろなーみたいなことを。よくないことだ。

 

 ・本当に久しぶりにJAGATARAを聴く。10年ほど前、『ニセ預言者ども』『南蛮渡来』の2枚を買ってよく聴いていた。狂ったように聴いていた。「みちくさ」という曲の「こんなところでみちくさしてしまったぜ」というフレーズは今もってしても心にガンガン突き刺さる。昔は自分がみちくさをしてしまっていることが嫌というほど(この曲を聴いて魂が揺り動かされるほど)分かっていて、道草ではない真っ当な道がどう通っているかも、どうすればそこに戻れそうかということもなんとなく分かっていた。ところが今はいよいよ宙ぶらりんというか、糸の切れたタコというか軌道を外れた人工衛星のようなフーテン状態にあるように思えるのだ。みちくさをし過ぎたのかもしれない。

 それにしてもJAGATARAは良い。歌詞が心の深いところに届く。

 

 ・「むかし小さなクマのおもちゃがあったよな。」とふと思い出した。それはテディベアのキーホルダーで、お菓子がついていて食玩売り場とかコンビニで売られていた。クマごとに誕生日と名前があって、だからクマちゃんは365種類いるはずだった。自分の誕生日のクマを買ってもらったなあ。と後から調べたら「365日のバースデーテディ」という商品名だった。なつかしいなあ…………

 ・当時の記事。

web-japan.org

 

news.nissyoku.co.jp

 

 ・自転車に乗る機会があった。電動アシスト自転車だったということもあろうがなかなか心地よい体験だった。

 ・久しぶりにプールで泳いだ。泳ぎには自信がある方だったので、泳ぎ方の何割かを身体が忘れていたことが大変にショックだった。クロール、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライとひと通り試したがリズムを——そうまさにリズムと書くのがふさわしい——掴めなかった。息継ぎをするたびに少し沈み、立て直し、ぎこちなく進んだ。身体があまり忘れていなさそうだったのは平泳ぎと背泳ぎだった。少しずつカンを取り戻していきたい。

 

 ・初めて1000円カットというところに行った。髪を切りたかったわけではなかったのだ。奥まって高低差があるような変な土地に店があり、見てみたら散髪屋で、髪も鬱陶しかったし入ってみるか、というノリだった。切ってくれたおじさんはなんというか出で立ちがプロっぽくなくぎこちなくて新鮮に感じた。3か月前に別の仕事から散髪屋さんに転職したというような身のこなしだった。頭の高さに合わせてしゃがむときの屈み方や櫛の使い方が身体に染み付いていない挙動で、丁寧に接してくださっている感じはあったが、手慣れていない様子だった。お仕事を始めて何年ぐらい経つ人だったんだろう。1000円カットは顔そりも洗髪もナシ、切ったあと頭の周りを掃除機で吸いまわされておしまい。

 

 ・うつにはプロテインが効く(うつはたんぱく不足が原因)という話を、いよいよ一度信じ込んでみるか、と思い立ちプロテインを飲み始めた。寝不足の朝に付き物の「おれを今すぐに殺せ」「目についたものを今すぐに殺してやる」というようなささくれだった気持ちが和らいだ気がする。胸元に空いた空間に、バニラアイスクリームホワイトの柔らかい球体がすっぽりはまったような弱い安心感がある。その身体感覚によって自分の中にはうつろな洞窟があったということを気付かされた。数日後にミロもしばらく飲み始めることにしてみた。豆乳に溶かしたりアーモンドミルクに溶かしたりしている。適度なドロドロ感がいかにも効きそうでいい。「タマゴとヨーグルトとミルクの赤まむし割り納豆フロート」はもしかしたらこの遠い延長線上にあるのかもしれない。大切なのは”気のせい”。信じ込むこと。

 

 ・「このデリーの安宿は、カトマンズの一泊七十五円というような途方もない安さには及びもつかなかったが、居心地は悪くなかった。ここにほんの一晩か二晩泊まるだけで、翌朝には元気に次の目的地に向かって出発していくといった旅行者でもないかぎり、他人にうるさく構おうとする気力を残している宿泊者はほとんどいなかった。自分から話し掛けなければ誰からも話し掛けられず、外部からはまったく切り離されたひとりだけの時間を過ごすことができる。そのようなある種の無重力状態は、刺激もないかわりに奇妙な安らぎがあった。」(沢木耕太郎深夜特急1』)