2021年8月のつぶやき

 

 ・チープカシオ熱が再燃しつつある。久しぶりに手に取ったパッケージはシックになっていた。良い。「魚の活性に影響を与える月齢と月の位置の相関関係から導き出した魚の釣り時を直感的に教えてくれる、フィッシングタイム機能」(公式ページ紹介より)がついたモデルを買う。上の液晶の魚アイコンが明滅する様子が可愛らしくてつい。新しいおもちゃを与えられた子どものように眺めている。「チープカシオ」と呼ぶのはよくないよな、名乗るに倣って「カシオコレクション」と呼ぶべき。

 ・腕時計のことを考えていたら昔買ってもらったG-SHOCKのことを思い出した。何年も前にバンド(ベルト?)がぶっちぎれてしまって、ずっとそれから放置してたんだけど、交換すればいいってことについ最近気付いた。こんな簡単なことにどうしてずっと気付かなかったんだろう。部品を取りよせて交換した。まだ巻き癖もついていないまっさらなベルトが愛おしい。物を大切に出来たなって嬉しくなった。またずっと置いといて孫が中学生になったら無理矢理プレゼントしようかな。

 ・アホみたいにずっとダラダラ生きていたために記念日を迎えてしまった。なので私自身のノベルティを作った。もらった人が何とも言えない気持ちになる、頂いても嬉しくないアイテムが出来たので大満足。なんか、それほど親しくない人に向けた贈り物のお返しに送られてくるカタログギフトの末席にそっと置いてもらいたい。誰が頼むのよこんなのって。どうでもいいこと無駄なことにリソースを割くことこそが芸術だと書いていた人がいたけど、だったらこれは……

 ・それにしてもギフトカタログってなんであんなにワクワクするんだろう。”何を頼んでもいい”自由をずっと味わいたくて、いつまでもハガキを出さずに置いておきたい。ただ期限までに何も頼まないと良質な海苔とかどうしようもない品が送り付けられることになっていたはずで、これは人生における選択というものを端的に表わしている気がしてならない。我々は自分の力で何かを選べるうちに選ぶべきなのだ。しょぼいものでも自分で選んだことそのものに価値があるのだと。「百貨店」の語は「百(たくさん)の貨(品々)を揃える店」を意味するわけだが、ギフトカタログには「百貨本」「百貨誌」の訳を与えたくなる。

 

 ・「雑巾にでもなって 生れてくれば よかったのに/人間に生れて来たばかりに/三十二歳となったと言うのに/おれはまだ こんなことをしている」

 「しかし何も持たないということ程強いものはない。近頃特にそのことを感じる。こんな部屋にいると、市民的な幸福というものが自分に無縁のものであることがはっきりして来るから、その点でも気持に踏切りがつく。生活の幸福を断念できなかったからこそ今までは苦しかったので、思い諦めてしまえばサバサバと愉しい。」(梅崎春夫『怠惰の美学』より)

 ・「自殺をするということは、死に至るほど強烈なダメージを身体に与えることであり、強烈な恐怖心を伴う行動を行うことになります。恐怖心は自然と克服できるわけではなく、そのためには慣れが必要です。そのため、自殺企図や自傷行為を繰り返し、身体にダメージを与えることに慣れることは、自殺潜在能力を高めることにもつながります。軍事経験、身体的虐待、といった要因が自殺潜在能力を高めるのも同様の原理です。」(末木新『自殺学入門』より)