写真のミニマリズムについて

 

 星新一のSS(ショートショート)を小学生の時によく読んだ。「ショートショート1001」という大きくて重たい本を町の図書館で借りたこともあった、何度も貸出延長をしたが結局読破できなかった覚えがある。先日本棚の整理をするなかで久しぶりに星新一を手に取り、ぱらぱらと読み返した。「子供の頃に読んだ本でも大人になって読み返せばまた違った感じ方をする」などということはしばしば言われる。しかしこのSSに、その手の違った感じ方が新しく生じることは極端に少ない。感情移入の余地が狭くとられているのだと言える。物語が記されているものの、説明文や論文に近い文章なのだ。極めて精巧で、緻密なプロットだけがそこにあるように感じられる。そしてそのプロットは寓話やおとぎ話に近い。これこそが文章の普遍性と言えよう。大人になって読もうが数十年後に読もうが、必要最低限で構成された文体の整ったさま、まれに現れるレトリックの巧みな様子に改めて溜め息をつくのみだろう。

 彼はこれら物語に時代性を感じさせないよう心がけていた。「ダイヤルをまわす」という動詞を後年「電話をかける」に手直ししたエピソードは広く知られているし、ほかにも例えば金額について表現するときは「100万円の」などと具体的な額を書くのではなく「しばらく海外旅行に出られるほどの」などと表現するようつとめたという。これによって物語と読み手は貨幣価値を始めとする社会変動の影響をほとんど受けないわけである。

 

 以前にミニマル写真(写真のミニマリズム)私論を書いた。これについての思索と実践(撮影)は今も続いている。写真に普遍性、無国籍性に求める運動が筆者の中でずっと興っている。普遍性、無国籍性を持った写真とは「集合的無意識」のような、言わば風景の普遍性の海(ないし宇宙)に還元されていく写真である。それは誰もがどこかで見たことがあるかもしれない写真/風景だ。つまり「いま、ここ」ではなく「今でも此処でもない(いつでもどこでもない)」ということ。それはつまり「昔でも未来でも今でも、どこでもある」とも言える。これが普遍性だ。写真がその普遍性を得るためには2つの「しせい」を取り除くことが鍵になると今のところは考えている。まとまっている分だけ説明する。

 ひとつは「詩性」。説明するのが難しい言葉だが、表現がそれそのものを超えて人間の感情をかき立てる(ある写真が悲しそうに、あるいは嬉しそうに見えるなど)性質だというのが筆者の定義である。過去にも写真から詩性を排しようとした写真家がいた。そのうちの代表的な一人は図鑑的、カタログ的な写真を目指した。図鑑やカタログは、それ(被写体)がそのものであることのみを端的にあらわす。そこには撮った人間の気持ちは不必要だ。ただそれがそれであることを説明するのみが写真に求められる。情を消し去ることで写真は普遍性を獲得する。「情が移る」と言うが、情は「写」りもする。それを排することが詩性の否定である。

 もうひとつは「私性」。わたしであること。わたしらしさ。写真的私性の否定とはつまり自分(僕、あなた)にしか撮れない写真を否定することである。私性が排されれば写真は普遍性を獲得する。いつか誰かが/誰もがどこかで見ていたかもしれない風景。中望遠レンズで時間と空間を超えることは私性を消し去ることである。これはスマートフォンの広角レンズで「身バレ(意図せず身元が明らかになること)」することの反対側にある行為と言えよう。

 写真が普遍性を獲得するとき、この2つの「しせい」がまず排除されるのではないか。引き算の美学に従って行われる撮影によって。「完成とは加えるものがなくなった時ではなく、何も削るものがなくなった時である」、この言葉が示すように。最小限の意味を持った写真が完成に向かうとき、オブジェクト/線/情報は画面の外に追い出されていく。撮影者はファインダーを覗きながらあれを削りこれを置き、必要最低限の意味を画面の中に残す。これは写真が写真として成立する下限をなぞる、あるいは刮ぐ作業だ。

 

 画面には必要最低限の意味のみが備えられている。これはいつ撮られた写真だろう。つい先ほどかもしれないし、5年前かもしれない。明日だとしてもおかしくないのだ。

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 語ることの極致は語らぬことだ。正確に言うなら、語らぬことは語ることの極致のひとつに在る。この写真に即して言えばこれほど線が少なくともある意味ではあまりにも饒舌だということである。