私と料理

  料理をするようになって外食をすることが減った。化学調味料なんかの味が苦手なのもあるし、なんだか良い思いをすることも無いからだ。良い思いというのは店員さんの態度とか雰囲気とか料理も含めて全体として得られるもの。なんだか最近はどこもダメダメで、餌場みたいな感じ。安い給料で働かされている店員さんに良い態度まで求める自分を醜く思う瞬間に出会いたくないので行かない。それに何か悪いものを入れられているような気もする、雑巾の絞り汁とか。(時々食べ物屋さんの店員さんに怒ったりする人があるが、勇気があるなと思う。何を入れられるか分からないのに。)チェーン店に行くことがほとんど無くなった。なので、たまに行くことがあると非日常な感じがして逆に楽しい。

 料理、車の運転、水泳、この3つは自分の中で同じグループに入っている。「思考を紛らわせて適度に没頭できる行為」というグループだ。生活のためにつまり日常的に料理をするようになって4年ほどになるだろうか。一通りのことは満足に出来ると思うし、(昔ピアノを習っていた頃みたいに)手が勝手に動くようにはなった。

 僕は料理(調理)には2種類あると思っている、女の料理と男の料理だ。家事の料理と余暇の料理と言う方が適切かもしれない。男の料理とは余暇の料理。まず作りたい料理があって、その完成に向けて食材(や、あまり使われることのない割高なスパイスなど)を買い揃えて台所を盛大に使うやり方だ。はっきり言ってこれは生活に即したものではない。でもたまのことなのでそれで問題ない。反対に家事の料理とは日常的に行われるものである。こちらは食材から完成品が導かれることが当たり前にある。さっき「日常的に」と書いたように僕は後者の家事の料理をやっている。台所と食器の使用を必要最低限に抑えるやり方だ。毎日洒落た料理を作っていては(つまり男の料理ばかりやっていては)気力的にも立ち行かなくなる。

 家事の料理はなんとなく帰納的思考に通ずるところがあるように思う。例えばジャガイモ、ニンジン、お肉がある。これらで何か作ろう。ルウを足してカレーにするかキヌサヤを買ってきて肉じゃがにするか……。この時に思い浮かぶ料理の数が多い人は家事の料理に長けた人だと思う。ジャーマンポテトもいいかもとかポトフみたいに煮てみようかとか。疲れたりしていると思い浮かばなくなる。「何でもいい」が一番困る、の状態に陥る。因みに僕はカレーにジャガイモが入っているのは嫌だ。

 僕が得意なのは和食で、和食というとかっこよく聞こえるけど何のことは無い家庭料理だ。ナスの揚げびたしとかホウレン草のゴマ和えとかアサリの酒蒸しとかそういう、普通の料理。こういうおばあさんが作りそうな料理は食べていてもほっとする。自分の料理でほっと出来るのは大変に幸せなことだ。冷蔵庫にあるものからササっと作る料理生活にもいくつかこだわりがあって、そのひとつに醤油やサラダ油はケチらない(安いものを使わないということ)というのがある。よく使う調味料をケチるのは愚か者のやることだと僕は思う。それから「だしの素」「コンソメ」みたいなケミカル粉も使わない主義だ。食べ物の好みのことはまた日を改めて、長々と書くことにする。

 僕や京都の人間は炊いた料理を「たいたん(炊いたもの)」と言う。例えば木星のしましまの皮を剥いてから一口大に切って、全体が浸る程度の水から煮ていきアクを取り、日本酒だしみりんや砂糖醤油などを加えて、竹串がするっと刺さる柔らかさになって完成した料理。これを京都の人間は「木星の炊いたん」と呼ぶことになる。他の地域に住む人はそんな宇宙おばんざいがあると聞かされても衛星の話と思うのではないか。料理をしながら脳の余裕でこういう下らないことを考える時もある。