若いこと

 

 いやー若くてよかった!と思うことがある。どうやら若さは様々なことをカバーしてくれるから。例えば道を踏み外すこと。それが「晩節を汚す」になるのか「若気の至り」にな(って許してもらえ)るかは完全に年齢依存だ。生まれてから時間が経ってないだけで看過してもらえることがあるなんて。一種のボーナスタイムだと思う。それから失敗も。若いうちは背負うことも少ないので身一つで体当たりが出来る。とりかえしがつくことだって多い。奥さんも子どももいなければムチャクチャ出来る。そしてお金がないこと。若いうちは貧乏でも行き詰まり感が少なくていい。(これは個人的な悩みだけどもしかしたら僕は若いうちの苦労を買い過ぎて貧乏になっているのかもしれない。)でも老人だと悲惨な感じがある。報われる可能性は年月とともに下がっていくのだから。若いうちは汗も涙もまだキラキラしている気がする。これは小さな子どもだと更にそうで、ほっぺたもおしりも水をはじくはじく。

 はじくということは外からの刺激を突っぱねる強烈な力が内側から溢れ放たれているということで、それは命の輝きそのものだ。しかしその光も年をとるにつれ鈍色になって、型にハマり小さくまとまるようになり、社会の一員としては完成に近づけど生き物としてはつまらなくなる。かく言う僕も、工場排水の澱みか、遠い昔に絶滅したイヌ科の下手な剥製みたいな「にこごり目」になってしまった。

 いやー最近の年寄りはけしからん!と思うことがある。どの人も顔(表情)が生き生きとしていないから。肉体より先に表情が死んでどうするんだろう。学校も試験もない、し、会社も仕事もなんにもない、うえに、昼はのんびりお散歩だ。なのに何故楽しそうじゃない?例えお金が充分になかったとしても好きな時間に起きて、好きな時間に好きなものを好きなだけ食べられるのに。町中にゾンビのように跋扈するお年寄り、椅子があれば座り、彩度の低い服に身を包むお年寄りを叱り飛ばしてやりたくなる。年取るともっと楽しいんだぞ!と若者に身を持って教えてやることは老人の仕事のひとつだと思う。自分で死ねないからただ死ぬのを待っているだけの陰気くさい様子ではダメだ。出来合いのお惣菜で済ませて手を動かすことをサボると脳もしおれてくる。

 僕は人間で言えば24歳ぐらいなので今から数十年かけて理想のおじいさんになれる。猶予はたっぷりある。例えば、孫のTwitterアカウントを「大好き」というリストに入れる。銭湯の水風呂に不届き者が潜った上から分厚い鉄板で蓋をする。気に入らない点滴は抜いちゃう。鶴を助けて光る竹を川に流して虐められている亀を燃やした灰を枯れ木に撒く。プリウスでコンビニに突っ込むなんてチンケなことはしない、真っ赤なアルファロメオで大使館に突っ込むぐらいの激ヤバ老人になるのだ。流石に八十何歳まで生きるのはカンベンだけど(歳を取るより都市を撮る方を採る!!)、こういう想像は自分をわくわくさせる。そして世のお年寄りはこういうことを出来るのにしないことが不思議で仕方ない。

 

 死んだように生きるのではなく生き生きと死にたいのだ。ざっぱーん!

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