借金でもした方が

 

 長生きをするつもりがないんだけど、そう言うと不思議がられたり驚かれたりする。そこまでして生きる理由がないからなんだけどね。割に合わないし。僕は自分の命を軽んじている、少し意識的に、良い意味でも(その方が却ってはっちゃけられるから)。実は命ってそれほど尊いものじゃないのです、その辺にいっぱい歩いてるんだから。夏になったら蚊を殺しまくるし、ペットショップでチワワは売ってるし、今この瞬間もどこかで誰かが生まれてるんだし。自殺をするなという教えのほとんどは人間を体よく使役する人間の理論である。

 割の合わなさで思い出したこと。少し前、ある化粧品メーカーが舞台用化粧品の販売(生産)を終了し、それに困ったユーザー達が声を上げ販売が再開される、ということがあった。この一連の出来事に違和感を覚えた。この会社は割に合わないからその商品の販売をやめたわけだ。それをまた売らせるのは一体どういうことだろう。舞台用とはいっても別にメセナの文脈にはないわけです。商売でやってるんだから利益が出ないものは作らないし売らない、企業として全く自然なことだ。採算性がないからやめただけのこと。ありがとうございますの気持ちで飯は食えないわけ。慈善事業でやってるわけじゃない。いざ終了してからゴネたユーザーたちは普段からもっと使いまくって買いまくっておけばよかっただけである。これは写真用フィルムにも、何に対しても言えることで無くなってほしくなかったらごちゃごちゃ言う前に買えばいいんである。金だけ出して口は出さないのが理想のパトロンだとは言うが、金は出さずに口は出すというのは都合よすぎませんか。

 でね、この割に合わないというのは個人の人生にも当てはまることだと考えている。僕は死を考える他者に死んでほしくない、思いとどまってほしい、とお願いをする。お願いをするものの、その人が生きていくことの責任を負えるわけではない。例えばだけど僕が悲しむからやめて欲しい、というような合理性とは別の次元の説得しか出来ない。他者に割のいい人生を送らせることなんてほぼほぼ出来ないんだし。これってよく見ると「金は出さないけど口は出す」のと同じ構造なんだよね。もし億万長者になったら生きててほしい人を生かしておく施設を作るのに。一日中好きにだらだらしててもらうの。本も読み放題で毎食お寿司だよ。

 自分が生きる理由の話。クルマが愛おしくて生きてます。もし死んだら家族はクルマを僕ほど丁寧に扱わないだろうから(話しかけたり撫でてやったりもしないだろうし)、それが心配で当分は生きるだろう。デリケートな熱帯魚を残して旅行に行けないのとおんなじだ。僕は誰かに何かをやってもらうにしても自分のこだわり通りやってもらわないと気にくわない厄介でめんどくさい人間で、それを自覚しているから極力誰かに何かを頼まないようにしている。【家事を頼む主婦が夫に言うべきは「そのやり方じゃない!」じゃなくて「すごーい!」です、男の人は褒めて使いましょう】みたいなことは僕には出来ないのだ。そのやり方じゃない!って言っちゃう。でも「それ仕舞うのそこじゃない!」とか言われると手伝ってあげてる方も気悪いじゃない。でしょ。

 ので、雨の日はあんまり乗らないでねとか駐車場の端にとめるようにしてねとか、時々はシートと床をコロコロしてねとか、ドアをバーン!って閉めないで、誰にもそうやって閉めさせないでねとか、とかとか、そういうことを遺書につらつらと書くことになる。それも嫌でしょ。話が脱線するけど車のドアをバーン!って閉める奴は魂のステージが低い痴愚に他ならない。彼らのほとんどは脳味噌がつるんつるんで満足に読み書きが出来ないし道に落ちてるものも平気で拾って食べたり袖口で口を拭いたりする。それはそれとして。

 借金でもして何かデカい買い物をすれば返済の義務によって生かされるのかもしれないとある時ふと思った。ヤバいローンを組もうかなって最近考えている。でも別にそこまでして欲しい高価な物ってないんだよね。それこそクルマにも住家にも満足しているし。けど何か負債を負えば返すまではきっちり社会の一員として生きていけると思う。僕は変なとこ真面目だから借金を踏み倒す不義理、気持ち悪さに耐えられないはず。なんかないですかね、デカい買い物。

 

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