自殺も生き方のひとつです

 

 たいへん不憫なことに産んでみたらおれだった親から、何百万と搾り取って大学に通っ(てそのうえで留休王国のイミグレにパスまでし)たことに意義はあった。何百万の価値はあった。その価値のひとつが「自殺も生き方のひとつ」という言葉――とそれを取り巻く態度とモノの見方――と出会ったことだ。今日は特別にこのフレーズをインターネットに公開してこれを読んでるあなたに共有します。自殺も生き方のひとつです。

 他人が自殺したからって批判するのやめませんか。それから自分が気持ちよくなるためのオカズにするのも。それは例えば精神論の開陳とか後悔の公開とか。そういうオナニーとか自己演出って醜いですよ。何なんだ一体。人間はひとりひとり独立した存在であるという意識が欠けているのか。フナムシぐらい気持ち悪いなあ。フナムシっていうのは防波堤とかにいる合法のゴキブリみたいな虫です。

 

 だいたいねえ他人様の生き方にごちゃごちゃ言うんじゃあないよ。自分の人生しか生きたことない奴がとやかく言っていいと思ってんのか。他人の人生に軽々しく口出しすることを慎むべき。もしくは、口出しするならしたなりの責任を負うべき。言いたいことだけ言うのは成熟した態度じゃない。*1

 自殺も生き方のひとつです。選択のひとつです。誰が良いわけでも悪いわけでもない。当人の選択です。*2なので伝えたいことがあるなら、死んでから惜しむぐらいなら生きてるうちに直接伝えた方がいい。人間は生命活動してる状態が通常だと認識してると中々思い至らないかもだけど。あとで後悔しなくて済むかも。

 

 「人生は何度でもやりなおせる」とかよく軽々しく言えるね。財産も仕事も何もかも失って四肢全部ライオンに食べられちゃってもまだ言うのかな。あるいは自分が言われて励まされるのかな。寝ぼけたこと言えるのは今自分に余裕があるからでしょ。「人生は何度でもやりなおせる……!」と思える人がやることは見当違いのアドバイスじゃなくて自分がいる環境に感謝すること。*3

 「生きていればいいこともある」なんて無かったら責任とれそうな時しか言えない。だって当人がそれまで生きてきて良いこと50個、悪いこと100個だったから(そのように感じてるから)自殺を検討するわけでしょう。その選択は合理的だよ。単純に損切なんだから。

 遺書に「いじめや家族間のトラブルではない 楽しいままで終わりたい」って書いて亡くなった中学生がいたけど人生としては大成功だよ。勝ち逃げだよ。鮮やかな撤退だよ。それこそ無責任なこと言ってるのは分かってる、あくまで個人の感想ね。おれもそうありたいけど難しい。どうしようもないしどうにもならないし、生き続けて道が開けるわけでもないんだけど、ちょいちょい楽しいことが起こっちゃうから。もうちょっと生きてたらあるかも、あるかもって期待して生きちゃう。バカだから。ランダムでバナナ出てくるスイッチ連打するサルと一緒。あるいは毎週水曜抽選のくじ買い続けてるようなもんだよね。

 それに自殺する度胸も根性もないからね。甲斐性なしですよ。であるからして「能動的に生きてる」というより「ただただ死んでないだけ」に、もしかしたら近いのかもしれない。と、いつものドゥルーズ=自分ガタリで終わる。なるはやで死ぬぞ。

 

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*1:ちょっと話かわるけど対人援助職って「ごちゃごちゃ言うことがもたらす波紋(=自分がどこまで踏み込んで関わり合っていけるのか、そもそも入っていいのか)」と「ごちゃごちゃ言うことに救われる状況や人がいる事実」、その矛盾に似た対立の中でああでもないこうでもないを永遠に繰り返す人種なんだろうね

*2:激務とかで引き起こされた精神的な余裕の減少から、視野が狭まって、他の選択肢が見えなくなり、消去法的に自殺が選ばれるケースなんかは別として

*3:でもこの言葉は輪廻転生を表わしたものだと解釈するなら広く当てはまるかもって思ったり。「人生を」って。死んでもまた生まれちゃってやり直せるのかなって。どうでもいいですね