大切な人います?

 

 「コロナウイルスから大切な人を守るために〇〇を心掛けよう」というような文章を見かける。大切な人を感染させないために、マスクをしようとか不要不急の外出を控えようとか手洗いうがいを徹底しようとかいう呼びかけなんだけど。なんか引っかかってて。大切な人が誰にでもいる前提なのかよって。

 いない人はどうすりゃいいの。マスクしなくてもいいの?飲み歩いてもいいの?

 ……まあ、大切な人がいる誰か他人の為、誰かの大切な人である誰か他人のために色々と心がければいいんだろうけど。そんな人間が出来た人おります?聖人じゃん。

 すごく非科学的で根拠のないことを言うけど、社会がここまでコロナに苦しめられてるのって今まで大切な人がいない人のことを一切考えてなかったツケだよ。なんかそう思えてならないんだ。人生がどうでもいい人は他人の人生だってどうでもいいんだから。そりゃマスクなしで遊びまわったりするでしょうよ。いや言い過ぎた。ツケだってのは呪い過ぎとしても構造的欠陥の顕在化、あるいは想像するいいキッカケ、ではある。

 でも社会は大切な人がいない人を積極的に排斥しようと考えてなかった訳じゃないんだよね。そんな人いるなんて思いもよらなかったのが本当のところだろう。悪気の無い、「大切な人がいない奴なんてマジでいるんですか?」「誰の大切な人でもない奴なんていないでしょ」みたいなナチュラルな、邪悪な無邪気さでもって、彼らの存在を想像することが全く選択の範囲外にあったんだろう。そして未だにそういう能天気さと想像力の無さに浸っているからこそ、冒頭の文章のようなことが言えるわけで。

 これって無敵の人を見ないふりして社会の輪から遠ざけた結果、事件を起こされる(社会に逆襲される)のと似た構造だと思うんだよね。社会は常に無敵の人に狙われている。ほとんどの人は何か事件が起こるまでそんなこと考えもしない。かりそめの平穏はしばしばかき乱される。それら無敵の人が起こす事件は(当然のことながら)全てではないにしろ、身から出た錆に近いものだと私は考えている。本当にそうだと思ってるよ、別にこれで炎上しても構わない。

 無敵の人のなかに巣食う生きづらさと居心地の悪さをやわらげてあげるためなら、優しさや隣人愛も、もっと打算的に使われてもいい。学校や職場で気に食わない奴をいじめないとか、町で見た変な奴を盗撮してネットに上げないこととか、電車の中でくすくす笑わないこととかって結局自分たちを守る術でもある。それこそ大切な人を守るための行動だ。

 話がそれちゃったけど、大切な人がいる人もいない人も、自分と反対側にいる人のことを想像してみるのもたまにはええんとちゃうか、と、そういうことですね。無敵の人各位も、死なばもろともみたいなのは知らない誰かのためにもやめませんか。それにいざコロナにかかったら苦しいのは大切な人いな(くて誰にも大切に思われてな)い人の方なんだよ。誰にもポカリとか買ってきてもらえない訳だし。