みずみずしさと文体

 

 少し手さぐりに編まれる丁寧で瑞々しい文章を読むと心に栄養が与えられている実感がおこる。一方で何となく悲しくもなる。かつて自分にもそういう部分があった気がするからである。これは錯誤なのかもしれないが、どちらにせよ確かめようのないことだ。思考は知らないうちに狭まっている(視野狭窄を自分で目視出来ない)のと一緒で、自分の中から消滅した単語や言い回しについて、それらが何だったのかということは永遠に分からない。

 感性は年月とともに研ぎ澄まされていくものではなく磨り減っていくものだと思う。思春期頃にピークを迎えて、あとは「いかにそれを温存し続けるか」が大切になっていくのではないだろうか。私が読んでいて懐かしいような、心の柔らかいところを少し冷たく白い指でそっと押されるような気持ちになる文章。それを書く人たちもやがて社会に溶けて混ざっていくにつれ、ほどほどの温度と適切な湿度で守られてきた感受性(インプット)と言葉を綴るためのバランス感覚(アウトプット)を失っていくのだろうと考えると気分が暗くなる。やるかたない。

 繊細で鋭さを持った人間を、多くのチャンネル幅広い帯域の電波を拾うアンテナを備えた装置のように例えて考えることが時々ある。受け取った感覚や刺激を流す経路と処理するモジュールが過負荷に耐えられないケースが多い印象がある。感受性が強い人だからといって感受に強いわけではない。主観だけど。今まで見てきた人しか知らずに書いている。

 

 自分の文章がどんどん分かりにくくなっている。読んでも何を言いたいのかよく分からないみたいな文字列を生成し続けて、そしてこのページに塗布している。読みにくいかといって難解なことを考えているわけでも伝えたいわけでもない。高等に伴う複雑さではなく、乱雑に近い煩雑さが自分の文章にある。内容にしてもどれもこれも似たり寄ったりで、考えも日常も同じところをぐるぐる回っているからである。どうしようもない。

 もし自分が大富豪だったら、ひだまりでキラキラと反射するような感性を持った人が好きな時に好きな本を好きなだけ読める環境を作るのに。何物にも脅かされない部屋を好きな住所に用意して、食べたいときに食べたいものを食べたい量だけ用意するのに……