畳に出来た人型の染み

 

 「孤独死 清掃」「特殊清掃 事例」などのワードで検索すると簡単にショッキングな画像に辿りつけるのは、何かインターネットの抜け道といった感じがする。ああ今自分は生きているんだ、と思わされるのは死に触れたときにこそであるからか、画像検索の結果を手繰りながらもどこかに高揚する自分が、正直に言えばいる。

 業者の実績紹介を通して見る限り、死の現場は圧倒的に畳床が多いことに気付く。(その気付きをきっかけとして私の中に畳床に対するぼんやりとした嫌悪が広がった。)そこにはぶどうジュースを煮詰めたような液体がとろーり静かに撒かれた跡がある。亡くなった時のポーズまで分かる写真もある。私はそこになんとなくポンペイ遺跡を連想する。まるで何百年と前のポンペイ市民が2020年の我々と大して変わらない日常を送っていたのが窺えるように、ぐじゃぐじゃに汚損された畳床あるいはフローリングに私はかつての家主の姿を、あるいはもしかしたらの未来の自分を見る。

 いま家で突発的に死んだら何日後に気付かれるのだろうと時々想像する。私に向けて定期的に連絡をとる必要がある人が、返信が無いことを不審に思って家を訪ねてくるかもしれない。これが現実的なプロセスではないだろうか。そうでなかったら嫌な臭いに気付いた誰かが警察を呼ぶパターン。家の鍵を持った人か警察官かが一切の遠慮なく建物の中に入り、たぶん土足であがってくるだろう。

 家に入ろうとする、あるいは家から出ようとするハエがびっしりと窓を埋め尽くしているかもしれない。し、まるで自然発生のように起こる小さな虫と、それを食べようと大きな虫が、またそれを食べる虫が、人間がいない空間を好きな数だけ安心して歩きまわっているかもしれない。

 身体はどうなっているのだろうか。風呂トイレなど水回りで死んだら不穏に満たされた液体の一体何%が私で何%が水道水だったものか分からなくなっているはずである。弛緩した穴から中身が零れているだろうからだ。まとまって数万とある細胞や器官、部位達は、心臓が止まっただけで全ての緊張を解くのだ。この事実はしばしば私をハッとさせる。心臓すごーい。焼き鳥食べたくなってきた。もちろんハツね。タレでね。