一旦言葉から離れてみること

 

 言葉を使わない、原初的なコミュニケーションにもう一度目を向ける必要を感じている。非言語/言語などと区分されるよりさらに前の原始的なふれあいに。

 あまりにも好き過ぎる・愛おしいものを目の前にした時に「言葉が足りない」「もっと語彙があれば……」と感じる現象は、あらゆる感情は言葉で説明できるという、自分のシステムに対するある種の誤解に起因しているのではないか。多くの人は自分の気持ちを表現するのにぴったりな言葉が見つからないとき、もどかしさを覚える。

 別に無理に探さなくてもいいのでは、という提案に近い考えが僕にはある。言葉で説明出来ない感情は言葉で説明出来ないものとして生まれたのではないだろうか。言語の領域外にあるものを、苦労して言語・日本語に落とし込む必要はあるのか。でも僕らは全く意識することなくその必要に追い立てられている。日常場面でも、感情が言語に「翻訳」されるとき、変換し損ねた・変換し漏れたなにかはこぼれ落ちてしまう。常にそのなにかはこぼれ落ちている。そこに、そのロスに目を向けることが豊かな営みを構成するために重要な要素だと思う。

  言葉に出来ないというところまでは言葉になっているわけで、それ以上は抱き締めるとか撫でるとか噛むとか首を締めるとか、言語を超えたふれあいにむかうほうが人間として自然な感じがする。芸能人やアイドルとかを見てワー!とかキャー!という人は適切な言葉が全く見当たらなかったり、言葉を探す余裕もないほど感情がオーバーフローを起こしているんだろう。そういう人はうるさくてむかつくけど一方でうらやましくもある。当然のように言語を捨てて(言語化をあきらめて)、大きく叫ぶことによって感情を表出させ、排出しているわけで、生き物として自然な感じがある。

 言葉は強い。歌詞のない音楽や写真なんて数文字のタイトルや1行のキャプションによって表層の質感をいとも簡単に変えられてしまう。その恐ろしさに立ち向かう時が来た、気がする、今こそ!いやわかんないけど。

 

 言外の圧力をひしひしと感じた風景。

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 これ去年の10月に撮ってるね、あっという間に今年の10月も来ちゃうよ。