言うなれば哲学的希死念慮

 

 マヨネーズとかシャンプーとか無くなって買いに行くのがストレスです。そのストレスは認知的不協和(自分の矛盾とか言行不一致を不快に感じる人間の性質)に近い。何と何が相反してるのかと言うとですね、《自死が一番合理的》の命題と、《生活を維持》の行動。

 「お前さ。日頃自分は死ぬべきだとか言ってるくせに日用品買うのはおかしいだろ。まだ生きる気なのかよ」と自分が自分に言うわけである。それに対して自分は「お前が言うことは正しい。反論の余地無し。でもシャンプーは要るんだよ」と、無数の手に抑えつけられたような身体を、川を歩いて遡上するみたいに、ググググ……と前に進めるわけである。そういう営みが気力を消耗する。*1

 

 別に何か嫌なことがあるわけではないから(私は雨風しのげる建物に住んでいて、インターネットに書いた文章をあげられる、大変恵まれた環境にいます。蛇口をひねればお湯が出て、炊き立ての白米をお腹いっぱい食べられます)*2、死ぬために死にたい。 自分が合理的でない状態にあることが、ただただ不愉快。

 と言うと異常な状態にあるのでは、思われるかもしれないが全く平常です。もしこれがおかしいんだったら生まれてきてからずっとおかしいことになる。意味ないと分かっててやることほどバカバカしいことはない。「午前に掘った穴を午後に埋める拷問」って聞いたことあるけどそれそのまま人生の小さい相似だよね。前半生で登って後半生で下りる、あるいは展開して畳む、みたいな。

 こういう死にたさを、精神の不調によるものでないという意味合いで、「哲学的な希死念慮」と名付けたんだけど、誰かがずっと昔に同じようなこと書いてて(違う名前をつけて)たんだよな。実存的希死念慮?なんだったかなー、割と最近読んだんだけど誰の何て言う本だったかちょっと今思い出せない。

 そうそう本と言えば大好きな本を一冊紹介させてください。大学生の時に出会ったんだけど痺れたね。私は死にたいよ~とか甘えたこと抜かしつつもダラダラ生きてけつかる在野のバカですが、須原さんは実践しちゃった哲学者。まごうことなき名著。

 

 

*1:日用品に当てはまらない大きなモノはかなり減らして一切買わなくなった。時々欲しくなるけど、そういう気持ちに対してはもう一人の自分が「お前は今『遺品』を買おうとしてるんだぞ、やめれ」と言う

*2:あ、ごめんうそついた、一個だけありましたわ。

ずっと言ってる自論

 

 これは持論なんだけど……。

 人間はどこから来てどこへゆくんだろう、世界って何なんだろう、とか。誰だって中学生の頃にそんなことを考えたりしたじゃんか。でもそれは一時の熱病みたいなもので、大体はそんなことを考えないようになる。熱中することに出会えたり、すべきことに集中出来たりするから。考えても仕方ないことにとりあえずの回答を貼ってから、勉強とか運動とか人間関係とか趣味とか、現実の、実利の世界に向き合うようになるわけである。言わば「考えたらどうにかなること」に取り組むようになっていく。そうして大人になっていく。これが正しい、というか一般的な流れだと思う。

 ところが(!)、ごく一部の人間は引っかかってしまう、つまずくと言ってもいいかもしれない、何に?考えても仕方ないことに!自分なりの答えが見つからなかったり、どうもしっくり来なかった人もいる。世界って人間って自分って何なんだ。とりあえずの回答を正答と思えなかった人たち。彼らはどこに行くんだろう…………

 そう彼らは哲学とか美学とか心理学、あるいは芸術の世界に足を踏み入れてしまうわけである。学問という、人文学という、広い広い大海原の、海溝みたいなところに……卒業後消息不明の奴が多い学部へと…………彼ら?いや、私たち…………

2020年11月から12月にかけてのつぶやき

 

 ・今期の一句:「パパすごい」 こどもに褒められ 照れワーク

 ・今期の自戒:安く手に入ったものは使えるようにするまでに金がかかるんだぞ

 ・「自炊もできず、家で作る食事はラーメンだけという不摂生な生活を送っていたことが遺品から浮かび上がってくる。遺品整理の際に押し入れから出てきたのは、段ボールいっぱいの、あの袋入りインスタント麺だった。」(菅野久美子『超孤独死社会』より)

 ・霊能者集団のホームページ『龍水洞』が見られなくなっていた。好きなサイトだったのに。霊能者が2人で心霊スポットに行って地縛霊を写真で示してたり、独特の味わいがあった。

 ・起こるなんて思いもしなかったイベントが起こる。びっくりして、それからとても喜び、身体全体で楽しむ。月日の裏側からへそくりが出てきた感じ。良いこともあるもんだなあ。

 

 ・今年新しく始めようと決めたことが3つあった。そのうち1つは今も継続出来ていて、1つは怠惰により停滞、1つはウイルス大流行により中断という結果に。

 ・今年心がけていたこと「漢字が多いツッコミをする」、心がけられたと思う。

 ・今年35ミリフィルム日付入りで「日常」と題して撮ったフィルムは合計30本弱。計700枚ほど。

 ・今年手放したシンセ3機。手放したカメラボディ2台、レンズ5本(のはず)。

 

 ・最近何回も見てる動画。目が >< になるところがカワイイ。サイコーの動画だ。


🎷 

バウムクーヘンエンドのこと

 

 バウムクーヘンエンドという概念を発明あるいは発見した人はきっと歴史に名前を残すはずだ。長い年月に渡って双璧を成していた、ハッピー対バッドの二元論にもたらされた新しい原理、あるいはハッピーとバッドの子どもがバウムクーヘンエンドだと、あるいはバウムクーヘンアウフヘーベンだと私は考えている。

 主人公にとっての(バッドと言い捨てきれない)バッドと、ヒロインの(屈託のない)ハッピーが同居しているんだよね。そのハッピーに屈託がないゆえに読み手にとっては残酷だったり。*1

 どっちに感情移入しなくてもその終わり方自体に無常を感じる。もう少し踏み込めば登場人物Aが不憫な目に遭う(元恋人か想い人に笑顔で結婚おめでとうと言わなくてはいけない)のがたまらない、ということだよね。物語の書き手としては登場人物を愛おしく思うからこそバウムクーヘンエンドに終わるのは避けたい、あるいは逆に愛おしいと思うからこそ痛めつけたい。だからこのバウムクーヘンストーリーの登場人物、当事者に私はなりたくない。絶対やだ。

 これが日本人の精神性のひとつの極致、「一抹の後味の悪さがもつ美しさ」とでも言えようか、さすが「もののあはれ」を生んだ国は違いますね。軽薄なハリウッド映画みたいな物語をコカ・コーラのように消費する奴らにはこの苦味は理解(わ)かんないだろうね。すいません適当なこといいました。

*1:分かりやすくするために主人公とヒロインって書いちゃったけど男女じゃなくてもいいんだと思う。男男でも女女でも。登場人物Aと登場人物Bって書いた方がよかったかな。元々が男性同士の恋愛について検討されるなかで生まれた言い回しらしいし。それに社会的にまだまだ叶わぬ恋の同性愛だからこそバウムクーヘンがいっそう輝くって事実もあるよね、軽率なこと言いますけど。

『秒速5センチメートル』のこと

 

 ある物語(=人生)が喜劇か悲劇か、というのは観客(=他者)が決めること。その物語がハッピーかバッドかというのは登場人物(=自分)が決めること。なのかもしれない。ふとそう思った。2組の対立概念はねじれの関係。あるいはマトリクス図の縦と横。

 で登場人物(=自分)がそのあたり(=現状認識、自己客観視)を取り違えると「笑わせているつもりが笑われていた」「悲劇のつもりで生きてたけど喜劇だった」みたいなことが起こるのかもしれない。と思うんだよね。

 いいや、そんなことはない、「喜劇なんて主観さ」という意見もあるだろうけど。

 


 私も『君の名は。』が『秒速5センチメートル』みたいなすれ違いで終わらなくてよかったと思った観客の一人だった。だって一流のバッドエンドより三流のハッピーエンドを求める小市民だもの……

 映画『秒速5センチメートル』なんだけどね。主人公の貴樹がいつまでも子どもの頃の恋心を引きずっているのが何ともつらくかなしい……言葉を選ばなければ痛々しいお話。でもそれが喜劇(笑いもの)にならなかったのは——終始画面が美麗だったから、うそ——最後に想いを”自分で”断ち切ることが出来たから(こういう想いを捨てさせてくれる大人が全く別のアニメに出てくる。後述)だと思うんよ。貴樹くん名前の字面は喜劇っぽいのにね。

 つまるところ『秒速』って、「幼い頃の恋を忘れられずに引きずる男が、大人になってしばらくしてやっとそれを過去のものに出来る」というそれだけの話です。ただそれだけの話なのに、なぜ多くの人を惹きつけるんでしょうね。

 『秒速』本編3部作には明里のほかにあと2人、貴樹をとりまく女性が登場する。そのうち1人は貴樹と恋人の関係に。でも貴樹は『ノルウェイの森』のワタナベくんのように、心同士の繋がりを(明里のことを想い続けるがゆえに、無意識的に)拒否っちゃう。「相手の顔じゃなくて、その向こうのホテルの壁見つめてる」的うわの空状態が、看過できないレベルで続いてたんだろうね、憶測ですけど。

 で、明里は別の男とくっつきます。でもここで観客諸兄は「え?寝取られ?!」とか言うべきじゃなくて(そう言うピュアさは大切にすべきだとも思うけど)。これが社会の、生物の摂理なんだよね。むしろやや批判的に注目すべきなのは「昔両想いだったしこっちがずっと想い続けてんだし向こうも想い続けてるだろう」という童貞的……とも言い捨てられない悲しき男の性みたいな希望的観測風マインド。女性はその手の変な義理堅さみたいなのは持ってないから。想い続けてた、は、何かをした、のうちに入りませんからね。 *1

 それに貴樹のイメージの中で生きる明里はむかしの姿のままだろうけど、現実の明里はどんどんアップデートされていってるわけでして。ラストシーン、貴樹は踏切の向こう側に現実の、最新版の明里の姿を見る。ここで過去の幻影が振り払われた。幻影と同時に「明里が好きな自分」とも別れることが出来た。過去の恋愛は過去の美しい思い出としてアーカイブ保存にして終了、貴樹が次に進むことが示されて物語は結末を迎える。踏切はあちらとこちらをへだてるモチーフ、そこを恋人たちの距離を縮める手段である列車が駆け抜けて、走り去っていくわけです。

 『秒速』は貴樹によって喜劇になることが回避された物語。そしてその結末はハッピー(に向いた)エンド。この2人はもう会うことはないように思える。広い広い大都会東京で奇跡は2度も起きない。奇跡的に2度起きたのが『君の名は。

 《向いのホーム 路地裏の窓 こんなとこにいるはずもないのに♪》そうだよ、いないんだよ、分かってるけど探しちゃう。分かってるけど探しちゃう人がこの映画に惹かれるんだろうか。ほんとに心の、青臭くて生暖かく湿ったところをマチ針でつつくような映画だよね。観た後2ミリほど落ち込むし、なのにまた観ちゃう。どうでもいいけどメール1000回で1センチって何速何センチメートルなんだろうね。

 

 

 

 後述ここから。

 先ほどちらっと述べた、想いを断ち切る手伝いをしてくれる大人をご紹介します。それが『機動警察パトレイバー』に登場する警察官、後藤隊長。次の段落は彼の名シーン、失恋して大騒動を起こした犯人に対する呼びかけ。途中にはさまる犯人の返答は省略してます。

 「やめなさいって。女なんて広い世間いっぱいいるじゃないの。みんなそう思うの、フラれた時には特に。あいつしかいないって。俺にはあいつだけだったって。あいつと一緒になれない世の中なんかぶち壊して死んでやるって。そういう自分を見ればきっとあいつも俺って男をふったことを悔やむだろうって。でもそれは間違いなわけ。そういうことは全然ないわけ。バカな男のバカな死が、三面記事を飾り立て、世間の物笑いの種になる頃、女は別の男と引っ付いて、子供コロコロ産んじゃって、自転車に乗っけて買い物なんか行ったりして、塾なんかに行かしたりして。それで世の中、収まったりするわけ。バカバカしいと思うだろう?」

 この犯人も自分は悲劇の登場人物だと思っている人。それを後藤隊長は喜劇(三面記事を飾る、世間の物笑いの種)にしかならないよ。だからやめなさいよ。と説得(?)するわけである。こうやって優しく冷や水をぶっかけてくれる大人って貴重よね。

 『秒速』の貴樹も二三歩間違えてれば喜劇の主人公の悪い大人になってた。多分ハッカーとかクラッカーとかいうやつに。核ミサイルの弾道を変えたりしてたね。間違いない。

*1:この辺の生々しさというか甘えみたいなのが気持ち悪いって女性も多いんじゃないかなと勝手に思ってるんだよね。だから、こんなにメジャーな作品になってテレビで放映されたりして世間に馴染んでるのが本当に不思議。

40ミリ単焦点レンズのこと

 子どもの頃使ってたのが35mmF3.5、それから20年ほど経ったけど40mmF2.8。なんというか本当に進歩がない。おじいちゃんになっても40ミリ使ってるんだろうな。

  40ミリ良いんよ……ほんと。広角でもなく望遠でもなく、なんでもない。真っ白。白湯だ。白湯と一緒。寄れば多少は広角らしくなるけど(人の顔とかふくらむ)、だからって端がギャンギャンに歪むわけでもないし。

 

 キヤノンのEF40mmが無いと生活出来ないです。あまりにも気に入り、気に入るというか気持ちの問題じゃなくて塩砂糖レベルに不可欠なので、複数持ちしてる。それぐらい重要。

 レンズそのものの物理的なサイズで最初は選んだんだけど *1、使ってるうちに自分の目が40ミリになった。そのせいで35ミリと50ミリが使いにくい。特に50ミリは標準(50ミリ「が」標準)ってのは常識中の常識だけど、私からすれば中望遠レンズでして。小さい靴無理矢理履いてるみたいな気持ちになる。

 

 水平画角50度弱。ピースサインの人差し指と中指の角度、よりちょい広いぐらい。もちろんギャルのピースね。

 その40ミリの相手には85ミリがちょうどよくて、昔の二焦点カメラ(ズームじゃなくて、レンズが一枚はさまって切り替わるやつ)を使うような気持ちで撮れる。ただ基本的に85ミリは寄れない。キヤノンから新しく85ミリマクロが出たけど、これは40ミリ人間にとっても朗報。

 寄れないからって85ミリのかわりに100ミリマクロと組み合わせると絶妙に相性が良くない。ちぐはぐ感。40ミリと100ミリは系統が別だから。ハムエッグはご飯にもパンにも合うけど、天ぷらはご飯にしか合わないみたいな感じ。違うな。全然違うわ。踊り場から二段だけ上がった高さは「何階」なの?みたいな。

 

 ライツミノルタCL(ライカCL)ってカメラが昔あった。これに合わせて作られたレンズが2本、40mmF2と90mmF4。勿論他のレンズもはまるんだけど、でもこの組み合わせこそがレンズ選びの正解・最適解なんだと感じる。答えはもう50年ちかく前に出ていた。

 

 

 

*1:EF40mmとほぼ同じ大きさのレンズ、EF-S24mmの紹介。厚さは100円硬貨とほぼ同じ(!?!?)。コインを引き合いに出して薄さをアピールする際、直径持ち出すのマジで掟破り。キヤノンはこういうとこあります。

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https://cweb.canon.jp/ef/info/ef-s24/ より。

食欲と嫌悪感のこととか

 

 おうち焼肉なんだけどね。焼く前に漬け込んでおいて、食べる前にはわさびをつけるだけ。というスタイルに落ち着いた。今のところの最適解。漬け込みダレはみりん砂糖にんにく胡麻油醤油。気分によってすりゴマや一味やらコチュジャンを適当に加える。

 下の写真は内臓系を中心に、加えてハラミ(だったかな)を漬け込んだところ。どうでしょう。美味しそうって思う?美味しかったよ。焼く前に冷蔵庫から出しといて、ある程度室温に戻すと良いんだよ。

 

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 でもなんか……グロテスクよね。ボウルに入ってて、真っ白な所に置かれてるからってのもあるんだけど。 *1

 美味しそうと思うか、ギョッとするかの違いってどの辺にあるんだろうね。上の写真はギョッとさせる盛り方撮り方なんだけど。

 同じ調理前の写真でも、例えば綺麗にサシが入ったステーキ肉の写真だったら、ほとんどの人が食べたいと感じるはずよね。内臓系だから嫌悪感というか不快感が生起されるのかな。食欲と嫌悪の間をつくとしたらホルモンって中々いいセンいってると思う。どう感じるか、人によってはっきり分かれそうって意味で。

 

 水族館でマグロとかアジ泳いでるの見て美味しそうって思う人って結構いる。その人は牧場で牛見たら焼肉とか食べたくなるのかな。競馬場行ったら馬刺し食べたくなるのかな。犬食べる国の人は犬見るとお腹空く、みたいな話読んだことある。芋虫が貴重なタンパク源だって人達は芋虫見ると多分、ちょっとおやつにつまむか、ってなるはずじゃん。アザラシだってエスキモーの人にとってはご飯だし。

 自分もジビエの魅力に憑りつかれてしまったらシカ見てお腹鳴るのかな。向こうでは普通に食べるセミを、日本で食べたがる中国人をテレビで見たことある。ぞっとしたね。まあでも私はヒグラシ以外のセミ嫌いなんで絶滅するまで食べてくれるとすごーく助かります。

 

 人間の中身が出ちゃったりしてるグロ画像ってなんで生理的な嫌悪感を呼び起こすんだろうね。自分だって同じものが詰まってるのに。いや、だからこそ不愉快なのかな。

 強制収容所で遺体を焼却する行為はヨーロッパでは土葬が一般的だから一層残酷に感じられたと読んで、なるほど、と思いました。日本では普通火葬だし亡骸を燃やすこと自体にはあんまり抵抗とか、人権の蹂躙だって感覚ないけど。あくまで燃やすこと自体にはね。

 

 寿司食べたい!!!って思うときに頭に浮かんでるのは、もう完成された「寿司」。出来上がって、あとはもう食べるだけの状態にある「寿司」。田んぼとかコンバインとか、海原の波間とか背びれとかは完全に頭に無くて、そんなことは一切考えてなくて、ただただ「寿司」という概念に直接アクセスしているインプレッションがある。そこに至るまでに関わった人間の数や労力の総和は(その一貫へと結実しているにも関わらず)、完全に思考の蚊帳の外。ただただ、手なり箸なりを操作して、寿司を掴み、口に運ぶだけの肉の塊として機能するわけです。

 私は泳いでる魚を見ても食欲は湧かないが、「寿司」という二字熟語を見るだけで、鼻の奥にお酢の香りが感じられるような幻嗅覚が起こり、なんだかいてもたってもいられなくなる。日本語が読めて意味が分かってしまうが故の弱点。

*1:例えば「愛犬の手術が終わりました。かなり悪い腫瘍だったようです」みたいなキャプションが付いてたらオエーってなると思うんだよね。写真のあやうさ(言葉の強さ)を改めて認識した。