バウムクーヘンエンドという概念を発明あるいは発見した人はきっと歴史に名前を残すはずだ。長い年月に渡って双璧を成していた、ハッピー対バッドの二元論にもたらされた新しい原理、あるいはハッピーとバッドの子どもがバウムクーヘンエンドだと、あるいはバウムクーヘンはアウフヘーベンだと私は考えている。
主人公にとっての(バッドと言い捨てきれない)バッドと、ヒロインの(屈託のない)ハッピーが同居しているんだよね。そのハッピーに屈託がないゆえに読み手にとっては残酷だったり。*1
どっちに感情移入しなくてもその終わり方自体に無常を感じる。もう少し踏み込めば登場人物Aが不憫な目に遭う(元恋人か想い人に笑顔で結婚おめでとうと言わなくてはいけない)のがたまらない、ということだよね。物語の書き手としては登場人物を愛おしく思うからこそバウムクーヘンエンドに終わるのは避けたい、あるいは逆に愛おしいと思うからこそ痛めつけたい。だからこのバウムクーヘンストーリーの登場人物、当事者に私はなりたくない。絶対やだ。
これが日本人の精神性のひとつの極致、「一抹の後味の悪さがもつ美しさ」とでも言えようか、さすが「もののあはれ」を生んだ国は違いますね。軽薄なハリウッド映画みたいな物語をコカ・コーラのように消費する奴らにはこの苦味は理解(わ)かんないだろうね。すいません適当なこといいました。