ここ最近の写真とカメラに関するつぶやき

 

 ・買ってからずっと着けっぱなしだった三脚座を、100ミリマクロから外してみた。ただそれだけのことなのに心が軽くなった。物理的に軽快で、心理的に痛快でもあった。何か私を抑えつける大きな力に向けてざまあみろという気持ち。私はこのレンズで何の説明もしなくていいし、訳の分からないモノを撮ってもいい。撮らなくてもいい。その真実を再認識した。私は本来自由なんだった。他者の価値観や社会の空気におもねるな。ピントが合ってなくてもいい、半分しか写ってなくてもいい、明るすぎても暗すぎてもいい。誰にも口出しなどさせるものか。

 

 ・ジャズのアドリブは「テーマ(楽曲)の続きをその場で、即興で作曲して演奏すること」と説明されることがある。私は「好きな写真集の続きをその場で勝手に作る」つもりで写真を撮ることがある。何をどういう風に撮ればいいか分かるし、一貫性が出てくる。

 

 ・レンズを買ってしまった11月下旬に。前々から存在は知っていたけどものすごく欲しかったわけではない、の位置づけだった、EF50mm F2.5 Compact Macro。年代の割りに状態がよかったので勢い買いした。数年ぶりのことだ。

 昔はよくレンズをパッと買った。買っては「さあ試写に出ないとな!」とワクワクしていた。その試写を——義務でもないのに誰に頼まれたわけでもお金になるわけでもないのに——義務のように思って、いそいそと性能テストに出かけていた。フィルターやキャップがなければ調達したし、それもまた楽しかった。

 画角の話をすると、40ミリが標準である自分にとっては50ミリは窮屈。使いにくくて嫌いだ。買っては手放し買っては手放しした。FDマウントの50ミリマクロも持ってるけど使わない状態で死蔵している(次に売るならこのレンズだと決めている)。

 でも今回買った50ミリのレンズには不思議と窮屈さをおぼえなかった。ただやっぱり中望遠のはじまりという雰囲気があって、全体ではなく部分を撮るための画角だよなと思う。切り取るにしても思い切りが足りないように思える。85ミリみたいな安心感もない、そういう意味では100ミリに近い容赦のなさ、冷徹さを感じないでもない。当分はこのレンズで、「手の届く範囲」を写していこう。