2022年12月のカメラとレンズに関するつぶやき

 

 ・牛腸茂雄展で見た、彼の使っていたカメラを思い出していた。CANON AE-1。レンズは2本展示されていた。

 

 ・必要に迫られてNIKON Z5を購入した。キャッシュバックキャンペーン中だったので丁度いいタイミングだった。新品で買えるニコンのカメラを新品で買うのは初めてかもしれない。EOSを買うならR5しか考えられなかったが、あまりにも高価なので見送った。R6は画素数の割りに割高に思えたのでやめた。そもそもEOSの「6」を買うのはどこか恥ずかしい(私の同じ考えの人、男の人は多くいるはず。キヤノンの販売戦略は狡猾だ)。なんにせよ、ニコンのミラーレスはセンサーサイズと画素数の割りに安いから、コスパがいいということだろう。バッテリーも安い。

 ・レンズはZ24-120mm F4 Sを買った。Z24-200mm F4-6.3、Z24-70mm F4 Sと悩んだが、前者は通しズームでないのが嫌で、後者は望遠が足りないのと売値が低いのでやめにした。

 (・私はそもそも開放が半端な値のレンズが生理的に無理。キヤノンにもRF24-240mm F4-6.3 IS USMという便利ズームが存在するが嫌な数字だ。もっと気持ち悪いのがRF100-500mm F4.5-7.1 L IS USMというレンズで、使ったこともないくせにLレンズの風上にもおけない奴だと思っている。F5.6-8なら気持ちよかったのに。)

 ・そのnikon Z5に対して、Zマウントに対して趣味的なカメラ欲は湧かなかった*1。24-120さえあれば基本的には何でも撮れるだろうし、つけっぱなしでいいはずだ。

 Zマウントには28ミリ、40ミリの単焦点レンズも用意されていて、それらの画角は好きだけれど、どちらの画角ももう所持しているし、なによりマウントがプラだったので中古でも買おうと思えなかった。

 Z20mm f/1.8 Sも気になったが20ミリにF1.8の(携帯性を犠牲にしてまで得られる)明るさは不要だと考えているので宝くじ3億円が当たったら買うことに決めた。宝くじそのものを買う予定も今のところ無い。

 コシナのMACRO APO-LANTHAR 65mm F2 Asphericalも気になっている。が、「私事のレンズ」「表現のレンズ」は我がZシステムには不要と決め切ったので買うことはないだろう。効率よくカネを生み出すための機械に過ぎひんのやからな。

 

 ・コシナで思い出したけど、昔COLOR-SKOPAR 20mm F3.5というレンズを持ってた。MFレンズで、モノとしての出来は良かったし使っててそこそこ楽しかったけど、写りが私好みでは無かった。ひどい陣笠収差があった。買ったのとほとんど同じ値段で売れたような記憶がある。

 

 ・Z5、どうも使っていて気持ちよくなれない。モノとしての存在感に欠けるというか、良くも悪くも画像データを生成する機械でしかないのだなと感じる。それは決して悪いことではないのだが。「フィルムが入っていないのにシャッターを切りたくなる」ようなカメラとは全然違う。その違いに戸惑っている。これはキヤノンとかニコンとかの違いではなくて、デジタルかアナログか/一眼レフかミラーレスか、の違いなんだと思う。もしかしたらEOS R3なんかはZ5よりは気持ちいいのかもしれないけど、それだってNEW F-1よりは絶対に気持ち良くないはずだ。

 ・気持ちよくなりたい。シャッターをきるためだけに写真を撮りたい。反射神経のゲームみたいに町を歩きたい。でたらめにラフに撮りまくってリバーサルフィルムをバカスカ使いたい。持ってるだけでワクワクして、何でも出来そうな気分になれる、そういう良くないおくすりみたいな高揚感をくれるカメラが欲しい。

 

 ・24-120ミリと共に歩いた。ここまでの便利ズームを持って歩くのはかなり久しぶりだった。なんでも出来すぎるがゆえに何をしていいか分からなくなる瞬間がたびたびあった。これまで同時発音数16のシンセサイザーで音楽づくりをしていたところに同時発音数128のマシンを与えられたかのような。

 例えば昔よく見られた35-70という範囲のズームレンズだと50ミリを中心だと考えることが出来る。数歩歩いたり下がったりする代わりの、あともうちょっとを補ってくれるレンズだと捉えて使えばいい。しかし24-120となるとその重心が分からなくなるのだ。歪曲収差が最も少ない画角を中心だと見立てるのも一つかもしれないが。

 何をしていいか分からなくなったのは、ひとつに、その日は自分の目が定まっていなかったからだろう(今ここで何ミリが欲しい、と欲望する目だ)。だから、「はい、レンズ交換をしました」とパントマイムしてからズームリングを操作するぐらいの確固たる意志がないと、撮った写真を並べたときに散漫に陥ってしまうと考えた。あるいは一本単焦点(を装着したボディ)を加えて、50ミリと便利ズームの関係、や、85ミリと便利ズームの関係、を考えながら歩くとスムーズに行くのかもしれない、と考えた。一本単焦点を持てば何を補えばいいかが明確に見え便利ズームの使い方が自ずと示されるはずだ。

 「おさえ」のカットを撮れてしまうズームレンズは万能であるがゆえ諦めたり捨てることが難しくなる。色々撮っているうちにその町の紹介パンフレットを作らされているような気になってくるのだ。気持ちよくてシャッターを切らされるのではなくて、義務感でシャッターを切らされる感じ。

 今日は24ミリのみ持って出る、とか、これからしばらく28ミリしか使わない、という「決意」は人生を左右するといっても言い過ぎではない。と思うこともある。「一本勝負」という手垢がついた言い回しがあるが、まさに勝負だ。「ズームレンズ一本勝負」みたいな戦いがあるのならそれは軟弱で見ごたえのないものだろう。

 画角を選ぶことは意思表示だ。私はこういう風に世界と接しますよ、という意思表示。写りの良さや明るさより私は「制約」が欲しくて単焦点レンズを選んでいるのだと、ふと気付いた。『殺し屋イチ』という時々読みたくなるけど家に置きたくない漫画作品には「必然性」に固執する人物が出てくる。私は「必然性」を求めて、どこまでも求めて単焦点の眼を選ぶ。自ら縛りを求めて不便さを、自由をもとめて選ぶ行為は自虐的だ。だが不自由であるがゆえの自由は、自由過ぎるズームレンズのうえには存在しない。配られたカードが良い手だと何を切ればいいのか悩んでしまうのと同じだ。

 

 

 

*1:いや、今のところはまだ湧いていないと書くのが正確かもしれない……