「ミニマルフォト」のこと

 

・現状

 「ミニマルフォト」で検索すると全然ミニマルじゃない写真がたくさん出てくる現状がある。撮った人はそれでミニマルにおさめたつもりなのだからいよいよ救いがない。誰でも情報を公開できるインターネットの弱点でミニマルフォト/ミニマル写真の定義が変わりつつある。それはほんのわずかな誤用の積み重ねによって言葉の意味が少しずつずれていくことに似ている。検索すると出てくるような”ミニマルフォト”(以下括弧付のミニマルフォト)については、「必要最低限のモノ(要素/意味)で構成された写真」と説明することがもはや出来なくなりつつある。

 

・別の人が書いた論考を踏まえる

 記事を紹介する。とても良質な考察なのに全然拡散されてないし、内容に見合った「スキ」数がついてないことが残念だ。

note.com

 筆者のNobutomoMuraiさんは、(インターネットで見かける)カッコ付きの「ミニマルフォト」がスタイルをなぞるだけの行為になっていることを指摘し、ミニマリズムの姿勢もアンチ・ミニマリズムの姿勢もとれないのならば(私の言い方で言うと思想がないのならば)、「シンプルフォト」を名乗るのはどうかという提案をしている。

 文中の、
>たとえばそれは写真が写真として成り立つ最小限の要件を探ることで、逆説的に「これさえあれば写真なのだ」というエッセンシャルなものを見つけることかもしれない。

という提起には深く賛同するし私自身も過去の記事*1
>写真が写真として成り立つ最低限はどこか、写真に満たないものを「撮影」することが出来るのだろうか、という問いと格闘して続けている。

と書いた。


>アンチの姿勢を取る覚悟がないのであれば、潔く「シンプルフォト」とでも言ったほうがいいのではないか?

 これは絶妙な落としどころだ。記事『最近の「ミニマルフォト」は「アンチ・ミニマルフォト」である』全体の重心でもあるように思える。質の高い批評にとどまらず、提起があるから——つまり表面的にしかなぞらない撮影者に対する歩み寄りがあるから——貴重なのに、多くの人(写真を撮る人、自らミニマルフォトを称する写真を撮る人)がこの宝石のような文章を見逃してしまっている。心底残念に思う。


>とにかく、何かのイズムを表面的に使ってしまうということはとても失礼なことだと、自覚くらいはした方がいい。
 あらゆる表現者はこの警句は常に胸に留め置くべきだ。

 

・自己顕示欲と記名性

 前出記事の筆者は括弧付のミニマルフォト(とその撮影者)に対して「シンプルフォト」を名乗るのはどうかという提案をしている。この記事を踏まえると[本質的なミニマルフォト-態度としてのミニマリズム+装飾や余計な文脈=シンプルフォト(=括弧付のミニマルフォト)]という図式が成り立つのではないかと考えた。

 では一体なにが[装飾や余計な文脈]をもたらすのだろうか。撮影者の理解不足に加えて、ここでもやはり現代社会の病、自己顕示欲・承認欲求の存在を指摘せざるを得ないだろう。自己顕示欲は言うまでもなく私性に根ざしたものであり、ミニマルフォトとは相反する人間の性質だ。誰らしくもなくあるべき主義に私らしさを持ち込もうするからズレが生ずる。何をしたいのか分からなくなる。表面的なスタイルの模倣に終始するわけである。

 ここで付け加えておきたいのは相反するからタブーだということではないということ。例えば必ず自分が写っている/撮影者を連想させるモチーフが必ず含まれている、など相反する要素を真正面からぶつけてしまって、同じような写真を説得力をもって量産しスタイルに昇華してしまえば、記名性を獲得し作家性のレベルに到達するのではないだろうか。それがもはやミニマルフォトと呼べるかは分からないが。

 あまりに長くなるとよくないのでこのトピックは記事を改めることにする。そして私はまだ本質と言えるポイントに迫ることが出来ていない。それは「人それぞれの必要最低限」について。

 

・シリアスミニマルフォト

 括弧付のミニマルフォトが「ミニマルフォト」を名乗ってしまっている状況に対して、本来のミニマルフォトを私はシリアスミニマルフォトと名付けたい。