年度末所感2018

 

 振り返りはじめはあっという間に感じるけれどこの一年は、しかし時間をかければ出来事は一つ一つまとまりをもって思い出される。まさに「(思い)浮かぶ」の表現がふさわしい。思い出すことは深い澱みから意識の表層、今この瞬間へと掬い上げる行為。記憶の澱みから取り出せば今でもそれらは瑞々しく新鮮にみえる。それでも感情や時間の対流、流動によってディティールや解像度は少しずつおぼろげになっていて、やがて無意識のシチューの中に解れ溶けていってしまう結末を確かに感じさせる。

 

 この一年、今覚えている限りドラマティックな変化や精神的天変地異は起きなかった。だから飛躍とか変化というよりは停滞ないし充足、準備、充電などの語がよく当てはまるだろう。一年前と比べると幾ばくかの高度化が見られる側面、好化した状態もあった。

 学求方面の成長スピードはガクンと落ちた。思考力の中で後退(退化)した領域も少なからずあるはずだ。肩書は学徒、在野の研究者、門外漢、オタク、ただの人とランクダウンの一途を辿った。新しく読む本の数も減った(書籍を買うしかなくなったことも一因だ)。大学より高度の研究機関に進んだ人と比べれば知的な差はどんどん開いている。特に肌から得られる知、実践知に関しては絶望的な開きがあるように思える。

 それからやはり、誰かに何かをするように言われることがなくなるとしなくなる。人間は放っておけばどんどん自堕落になっていくのだなあと思った。持ち前の、自分に厳しく人にも厳しい最悪パターンの精神構造で以て獣に堕ちるすんでのところでとどまってはいるものの、このままいけばそのうち人間の形を保つことが難しくなり、流動性を外皮に閉じ込めた(「人をだめにするソファ」みたいな)、温かくてぶよぶよした肉の塊に堕すだろう。僕の中の世界終末時計は23時57分あたりを行ったり来たりしている。

 

 人生どうでもイースト菌はうまく培養されたようだった。人生はどうでもよくなってからが本番だという持論がある。捨てて捨ててしてからやっと花開く要素があるのだと。自分を他者として見る視座、生きる姿勢、そして自分をいわば商品として売っていく感覚が身についた。どの一人称もなんとなくシックリ来ない時期があったけど、名字で呼ぶところにやはり落ち着いた。私は一番近くにいる他者。自分の人生を自分のものとして生きることに密着し過ぎると疲れてしまうので適度に離すのが合っているようだ。主体的に生きようとする熱意は煮詰まると物事をコントロールしようとする欲に転化してしまう。現実認識を情緒の共鳴板から剥離させてやっていきたい。

 

 一年前の自分に会ったらお前まだ生きてたのかって言われちゃいそうだ。きっと一年後の自分にも同じことを言うのだろうなと諦めに似た感情がある。それは明るい灰色の感情だ。……放置したての冊子の山に感情の渦を躍らせてます、失われた気持ちのあとは語りの色がそこだけ若いです、おかしくって涙が出そう、それぞれの道私たち歩いてゆくんですね…………

 

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