私世界観、私世界論

 

 現実や世界は多層構造をとっている。真実や人間といったものは多面体構造である。我々はいつまでたっても巨大な象、それも何頭いるかも分からない象さんをぺたぺた撫でまわす群盲に過ぎない(と、僕は考えている)(以降の文尾には適宜この一節を頭の中で補ってほしい)。ある真実が別の次元では非常識だったり虚構だったりする。現在生きているパラダイムの虚構に出会ったとき、そこに含まれる真実性を信じたり、時には願ったり、なにより簡単に判断して切り捨ててしまわないような懐の広さを持ちたい。視野の広さとも言えるだろう。

 全てはあくまで現段階で一番確からしい仮説だ。仮説に過ぎない。なぜかしらと思うこと、本当に正しいのか気にすること、疑うこと、今の常識が覆ってしまう可能性を考えの隅に置くこと。このような考えを携えて暮らすのが真に科学的な姿勢ではないか。逆に、充分な検討を行わず非科学的だと切り捨ててしまうこと、これが最も非科学的なふるまいではなかろうか。

 言わずもがな我々はそれぞれがそれぞれの人生を生きている。私の人生は私が私として生きてきたものだし、あなたはあなたのそれ、あの人にはあの人のあれがある。このことを理解していない人があまりにも多い。自分の中で答えが決まっていること、大いに結構。それぞれ好きにすればいい。しかし他者に押し付けるようなこと、これは全く美しくない。それどころか(敢えてこの言葉を選ぶが)、全く正しくない。

 言い切ることの強さを感じることもある。元気づけられることもある。しかしそれも程度が過ぎれば視野狭窄であり、思考停止だ。自分の考えが最も正しい、自分にのみ真実が見えている的妄執に取りつかれてはいけない。このような人種は言い返さない相手を見て言い負かしただとか理解させただとか論破したなどと悦に入りがちだが、その実呆れられていたり、諦められていたりするものだ。ものだ、というか僕は呆れている。話しても分からない相手に言葉を重ねるような気力は基本的に持ち合わせていないし、それほどに親切でもない。なんだかこの文章は普遍的な法則を説明するような口ぶりだけど、これも自分の経験から得られたことを述べているに過ぎない。自分を経験の外にあることは憶測でしか語れない。増してやそれが他者の人生と世界にも当てはまるだろうと考えたり適用しようとするのは、全くの傲慢であり、迂愚な行いだ。

 真に物が見えていない状態とは、何も目に入っていないというより何か一つしか見えない、ないし見ようとしないことなのではないか。群盲の中で「これは木に違いない」と言い張って憚らない愚かな亡者だ。そこにとどまらず、お前が触っているのも木だ、と決めつけて押し付けてしまう人間はそれ1人が1つの災厄だと言っていいだろう。