2022年4月某日の雑感 新幹線とシウマイ弁当の話とか

 

 新幹線の中は関東なのか関西なのかどっちなんだろう。全く身体を動かさずとも、直線距離400キロほどを2時間強でプシューと運ばれると、降りた途端に頭がおかしくなりそうになる。生き物として不自然な移動をしている気がする。アウェーからホームに帰ってきた先日はジェットラグならぬテンションラグによって、時差ボケならぬノリボケを起こしてしまった。

 1872(明治5)年に日本初の鉄道は開通したらしい。車両に乗り込む際、下駄を脱いでいった客が少なからずいたという。なので履物はホームに置き去りになるわけだ。靴を履いたまま室内に入ることに抵抗があったから、というのが理由付けの通説だが私はそうだとは思えない。彼らは部屋が移動するということを本当に心の底からは信じられなかったのではないだろうか。列車が目的地に着いたとき、靴を脱いだ客は窓から見える風景や、降りた先の世界が変わっていることに驚いたのではないだろうか。

 大学時代、大好きな先輩から聞いた話をひとつ。彼が中学生だったか高校生だったかの頃、修学旅行では飛行機で移動することになっていたらしい。しかし彼は飛行機に乗るのが嫌で嫌で仕方なかった。そこで意識だけを先に飛ばすことにしたのだそうだ。着陸空港や目的地の画像を検索して、その場所にいることを強くイメージした。修学旅行当日、彼は意識だけ先行させることに成功し——そしてあとから身体が飛行機に乗って合流したことで——無事に切り抜けたという。

 私も意識だけを先に目的地に飛ばす術を体得したい。心はきっと時速270キロで移動出来ないから、到着後しばらくは気持ちの座標が定まらず、先日も現実認識がまるで軽度の離人感のようにフワフワしてしまった。心だけはまるで明治時代の下駄のように出発地に残っている感じもある。人間の精神は、プラットホームに履物を脱ぎ揃えていた頃から(少なくとも科学と鉄道技術ほどの速度では)進歩していないのだと思った。

 100系新幹線で東京から新大阪を3時間ほどかけて(食堂車でサンドイッチでもつまみつつして)いた時代の移動感覚が人間の心には、いや私の心には合っていたのだろう。

 私が小さい頃の新幹線にはオーラがあったように思う。今よりも車体が重たかったからなのか、今より制動性能が良くなかったからなのか、ダイヤに余裕があったからなのか、理由は分からないがとにかくホームに入る頃にはかなり速度が遅くなっていた。300系新幹線がグオーーーン……と悠々堂々と入線してくる姿には、まさに鉄道車両の王者と呼ぶにふさわしい風格が漂っていた。今のN700シリーズにはオーラがない。でもそれでいいんだろう。本来は、風格とかオーラとかそんなものは単なる移動手段には要らないのだと思う。

 

 東京駅で新幹線に乗る段になるといつも、気付けば崎陽軒シウマイ弁当を持っている。選択に伴う気力の目減りを私自身が避けたがるのか、大丸の地下を回遊することがなかなかできない。

 パサパサしている鮪の漬け焼にかぶりついたら「飛行機のなかは気圧の関係で味覚が鈍るので、機内食は味が濃く作ってある」という話が思い出された。本当かどうかは分からない。

 「どのタイミングで食べていいか分からないアンズは最初に捨てて(あるいは食べて)、なかったことにする」という解決策を読んだことがある。コペルニクス的転回的発想。あらゆる不快なものは最初に除去して、あたかも最初からなかったようにしてしまいたい。私は別にアンズは好きでも嫌いでもないので普通に最後に食べる。

 蒲鉾にからしをつけて板わさみたいに食べるとか、最後は1ブロックの俵ご飯と切り昆布、千切り生姜を残したところにお茶をかけてサラサラっと〆るとか、愛好家が多いシウマイ弁当には様々な小技があるらしい。心底どうでもいい。オリンピックぐらいどうでもいい。私を含めた男って行為そのものより「やってる俺」の方が好きでこういうことをしたりする。醜い生き物だ。

 複数のモノの構成したり並べたりする時、その集団から浮いている要素は最初か最後に置いておく、というのは正攻法だ。最初と最後は内側の中で最も外側に近い場所だ。角松敏生のアルバム『AFTER 5 CLASH』でも毛色が異なる「Heart Dancing (あいらびゅ音頭)」は一番最後の曲だった。けどそんな「Heart Dancing (あいらびゅ音頭)」だってシングルカットされてA面になったんだから、シウマイ弁当のアンズを一番最初に食べて初めから存在しなかったということにする人がいても全くおかしいことではないだろう。

 それはともかくとして気付けばシウマイ弁当がそこにいた。餃子の王将で「天津炒飯」を、ジョリーパスタで「サーモンといくらの明太子クリーム」を頼むように、自動的に機械的に無意識的に持っていた。丸亀製麺でも「期間限定メニューあるやん、これ頼んでみよ」と考えていても、その十数秒後には「冷!ぶっかけ!並!」と口が叫んでしまっている。そうやって人生が終わっていくんだろう。住んでいるところから3軒隣の家屋から見える風景だって、一生見ないまま終わる。私はジョリパのペスカトーレもミートソースも食べずじまいだろう。