来世送り など

 

 例えば余命宣告されたりして、1年後に死ぬと決まったらやりたいことリストを片っ端から片付けていくと思うんだけど、多分誰しもが。なんか、自分は「来世の自分に任せとくか~」って思える時がある。これは人生に対する緩い満足が下地にあるような気がする。そしてこの満足というのは諦念と表裏一体だとも思う。

 今やってることは、多分前世の自分(自分というか、この魂というか……)がやりたかったことなんだと考えるときがある。自分の前の生き物は「帰りに成城石井に寄って生ハムとブルーチーズを買って帰れるような人間に生まれ変わりてえなあ……」てなことを思いながら死んでいったんだと思う。そこまで具体的な欲望は持ってなかっただろうけど。で、それが無事に叶ったのが今なんだろうね。そう考えれば現状もそこはかとなくありがたく思えてくる。「今、いのちがあなたを生きている」という胡散臭いスローガンがあるけど、この一言でこの段落は説明できる。

 死ぬ前にやりたいことリストの中に、ニューヨークへ行ってジャズを聴くというのがあるんだけど、別にこれ叶えられずに死んでもいいかもなと最近思ってる。

 人間がそもそも合理的に出来てない。のに合理性を盲目的に追及して、それどころかそうでないものを攻撃するというのは愚かだと思う。どうせ寝る時にはパジャマになるんだしって着替えずに出勤するのも合理的?じゃあどうせ死ぬのに生きてるのは非合理じゃないの。でもそれは極論でしょう、それぞれのほどほどがあるわけで。ほどほどが持つ非合理と不整合に人間は生かされるんだって。

 でも、損切りはやっぱり早い方がいいと思った。ずっと生きててこれ死んだ方が……って思ったらもうその瞬間に死ぬ方がサンク・コストが少なくて済む。日常を生きることはある意味ギャンブルで、明日こそ良い日!明日こそ良い日!って期待して生きちゃって嫌な目に遭う。良い日に当たったらその快感が忘れられずにまた生きちゃう。これって賭け事依存と一緒じゃないの。パチンコをする人がよく言う「トータルでは勝ってる」を、人生に対して言えれば素晴らしいんだけど。

 ちょっとこれ違うな、みたいな直観は大事にした方がいい。理由が思いつかないとか論拠が弱いからといってそういう感情や思考をないがしろにするのは堅苦しい暮らし方だ。死ぬ前に誰かが人生の採点をするわけじゃないんだから、行き当たりばったりぐらいでいいんだね多分。失敗して言い訳をする時にこそ論理性を持ち出せばいい。そういうしたたかさを覚えることが大人になるってことなのかもしれない。肩の力を抜いて(幾ばくかの図太さを伴って)暮らせるようになるってことが。

 恩師が「人生を長いスパンで見ることだね」という言葉を送ってくれたことがあった。人生を長い目で見るということの重要性は自分なりに分かっていたつもりだったんだけど、言われることで改めてそうだなーと胸を打たれた。そこから飛躍して、前世来世も見据えた人生設計というのが最近の考えなんですけど、どうでしょう。今世(平成の日本国)の風景を取得したらさっさと次の人間ないし生き物をやり始めようと思うんだけど。いや、生き物でなくてもいいな、砂防堰堤でもいいかな。でも人間以上に忍耐力が求められそうだな。砂防堰堤って、一般人からは前世悪いことした人が生まれ変わるものに見えるだろうね。