被写体に対して誠実であること

 

 推敲の終わりが見えない。未だにまとまってないけどトピックの粗熱がきえないうちにネットに流すことにした。この記事は何度も書き直されるはずだ。 読みにくくて申し訳ない(思考が混線していると何かの訳文のような日本語を書いてしまう)。これは主に写真家の荒木経惟氏とダンサー、モデルのKaoRiさんについての記事だけど、固有名を一々書くことはしなかった。その方がフラットに書けて、また読んでもらえると思ったからだ。

 少なくとも存命人物のなかでは日本で一番か二番に有名な、ある写真家がいる。一時期彼の影響を受けていた。先日、長年彼のモデルをつとめた女性がその写真家に関する文章を発表した。とても勇気がいることだったはずだ。この文章をただの告発の一つと捉えた人が多かったみたいだけど、それは一面的な理解に留まっていると言わざるを得ない。それは告発文に留まるものではなく、告白でもあって、何にせよかなり言葉を選んで、(読み違いや誤解をされないように)注意深く書かれたものだった。

 その文章は大きな波紋を呼んだ。いくつかの混同されやすい問題の提起を含んでいた。多くの人がそれぞれの問題を読み取った。理解不足に基づいたり、論点を取り違えていた感想もあった。僕も咀嚼出来ていない部分がある。僕が読み取れた――いや、正確に書くならこれは自分に近いものだと感じた――問題は大きく3つ。労働条件のこと、私写真のあり方、性被害の問題。とりわけ最後の2つは写真を撮る男性としての自分に深く関わっていることで、色々なことをうーんと唸って考え込む大切なきっかけになった。主にTwitterで見かけた、誤った理解に対して説明を書こうかとも思ったけど、それだとこの記事がいよいよまとまらなくなるので自分に近いことをひとまず書いていく。

 労働条件、労働環境の問題が分かりやすくあった。モデルという職業の特殊性が理解を難しくしているのかもしれないが、彼女は純粋にブラックな労働を強いられていたわけである。契約書が作られないまま働かされ、「無報酬のことも多々」あったと書かれている。報酬について不透明だっただけではなく、撮られた写真がいつどこでどのように使われるかということも知らされないことが多かったようだ。ヌード写真だと特に、その一枚をどういう文脈に置くかによって見る人の受け止め方は大きく異なってくる。彼女が写った写真は、被写体の意図しない使われ方をされ、意図しない受け止め方をされ、彼女はそれらに基づく悪意の被害に遭ったようだった。

 私写真のこれからについて。私写真とは簡単に言えば日常生活を撮った写真。皆がInstagramとかTwitterにあげている「今日の出来事」の写真なんかも含まれるだろう。その私写真を商業的な文脈で成功させたのがその写真家だった。写真の方法で日常を切り「売り」したと言い換えてもいい。写真に漂う「私性」が、彼の作風の一つの大きな特徴だ。両親の死、妻の死、愛猫の死を彼は写真に収めた。妻の死(棺桶の中の顔、葬式の様子)まで撮り、そのうえ発表したことはかなりセンセーショナルであって、賛否の嵐が起こった。ここからは僕の想像だけど、彼は最愛の妻を亡くしてから第二のミューズを探し続けていたのかもしれない。契約など結ばれない私的な関係を求めていたのかもしれない。その言うなれば古い方法と時代との乖離が少しずつ広がっていき、長年のミューズの告白、告発という形で現れたと解釈している。なお、以前にもこの写真家からの性被害を告白した方はいらっしゃった。

 性被害の問題。性被害というより性搾取という方が適切かもしれない。前提として、撮る撮られるの人間関係はどうしても撮られる方(被写体、被撮影者)が弱者に陥りやすい【※補足】。そのことを我々撮る人は常に意識しないといけない。今回の告白を、僕も含めて彼の影響を受けて彼の方法論に基づいて写真をしていた人は、みな当事者意識、もっと言えば加害者意識を持って受け止めないといけない。被写体の性的な側面を強調し、搾取するようなやり方は(、良い悪いについてはここでは言及しないけど)、この時代には合わない。それは確実に言えることだ。

 まだまだ言いたいことはあるんだけれど今回はこの辺にする。色んな考えが渦巻いていて、当分は整然とした文章を書ける気がしない。この記事を通して何かを変えたいとか何かを糾弾したいとかそういうアグレッシヴな意図はなくて、僕の考え方と写真が変わり、深く反省をする1つの大きな契機があったということをただ残しておきたかった。最後になってしまったけど、今回の大きな動きのきっかけとなったKaoRiさんと、自らが受けた被害や傷を告白された全ての女性に心からの敬意を表して、ひとまず終わりとする。

 

 

【※補足】

 こう書いてもピンとこないかもしれないので卑近な例をひとつ。自分が写った写真を勝手にInstagramTwitterにあげられて困ったという経験はないだろうか。これは「フォトハラスメント(自分が写っている写真を無断でアップされること)」と言われている。1つ目の問題点について述べた中で「撮られた写真がいつどこでどのように使われるかということも知らされないこと……」と書いた。それはそのまま、一種の巨大な「フォトハラ」である。被写体は写す/写さないの選択とアップロードする/しないの選択、いわばある種の生与殺奪権を撮影者に握られた弱者だと言える。