お風呂に入らなきゃ

 

 「うつ病は洗い物からやってくる」とはよく言ったものだ。毎日すべきことの滞りは心身の働きが鈍っていることを教えてくれる。真っ先に浮かぶ洗い物といえば食器、次に衣類だろう。これらは使う度に洗わないといけないので、どんどんたまる。シンクや床なんかに溜まれば溜まるほど片付けのハードルが上がる、という負のスパイラルを呼び込みやすい。

 洗い物とはそれだけにとどまらない。山積はしないものの都度都度洗う必要があるものを忘れていないだろうか。そう、それは身体である。風呂だ。

 私は今シーズン、なんだかやけに入浴が億劫だ。

 元々風呂は好きなのに。ひところ銭湯にはよく通ったし、その高い天井に抜けてゆく湯けむりをぼんやり見上げる時間なんかは快楽という概念に揺蕩う現象として世に在った。「〇〇(名字)湯」と書いた国産檜の洗面器に石鹸等を入れたまま、馴染みの銭湯その脱衣カゴのマンションの屋上に置きっぱにさせてもらっていた。

 ダメだ。自分でも面白いぐらい身体が動かない。まるで浴室に強力な結界が張られたみたいだ。靴下を脱ぐのに30分とか平気でかかる。ふざけて言ってるんじゃない、本当に。鬱を黒い犬にたとえた人がいたが、私の鬱は水子のようなイメージで、えらく比重が重くて柔らかくて生温かい何かが肩から背中にかけてのしかかっているような感覚。水子を作ったことはないけれどね。でも赤ちゃんって寝ると急に重たくなるから分かりやすいかなって。

  洗器(食器を洗うという意味の単語。今考えた)が億劫なら紙皿紙コップ割箸を揃えて使う度捨てるとか。洗濯が億劫なら毎日同じ服を着て「同じ服を何着も持ってるだけだから」とうそぶくとか。これらには逃げ道があるんだけど、風呂に関してはもう入るしかない。皮膚をぺろぺろーって剥がして新しいのをぺろりんって着るわけにもいかないし。昭和時代に描かれた夢としてお馴染みの人間洗濯機が一般的になればいいのにね。そしたら次は服を脱いで着るのがめんどくさくなるんだろうな。