撮れ高主義

 

 撮れ高(取れ高)を求めるようになったり、「ここ引きでもう一枚撮っとくか」というように打算的になるとアマチュアリズムは腐る。趣味ならではの柔軟さ、創造性は後退する。子どもが小さな大人になるとつまらないのと一緒で、プロになれないカメラマンになるとアマチュアはつまらなくなる。

 それでも撮れ高について考えることがある。それから撮れ高に大きく関わってくる土地の濃度、密度を意識することが。なんの密度かというと情報だ。情報量(色と物体の数と質や、線と辺の数と質などなど)だ。あるいは意味量。場所による情報量の差、濃度、これを僕は「土地のスケール」と呼んでいる。それは目盛りというか解像度というか……どう言い換えていいか難しい。

 スケールが大きい(広い)というのは、いつまで歩いても風景が変わらない土地。ひらけた広大な場所とか郊外がこちらに当てはまる。適する移動手段はクルマだろう。たとえば広角レンズでミニマルフォトを撮りたい場合、選ぶ場所は原則こちらだ。

 一方でスケールが細かい土地というのは少し歩くとすぐに景色が変わる。都市部がこれに当てはまる。面積あたりの道路の本数、建物の数が多いということだ。適する移動方法は徒歩だ。写真撮影に適する移動方法は僕にとっては徒歩なので、スケールが細かい土地、つまり情報密度が高い土地の方が撮れ高が多い。


 その土地の情報密度×移動距離(もしくは歩行距離、もしくは歩数)=撮れ高

 

と表すことが出来る。これは一番単純な式の形で、実際には天気とか撮影機材とかテンションとか空腹度とか、星のめぐり合わせとか潮の満ち引きとか地縛霊の機嫌だとか、いくつもの変数が関わってくる。移動に関して言えば(僕の場合)撮れ高は移動速度に反比例する。エンジンがついた何かを運転しつつシャッターを切るのには限界があるからだ。「あ!」と思ったらすぐに止まったり引き返せる足が適している。

 

 都市部は少し歩くと景色がどんどん変わる。

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