予定日

 

 和菓子の「若あゆ」と本物の鮎がほとんど同じ値段で売られていた。これは不自然で、どちらかが高い方が自然だろうと思ったけど、それがどちらであるべきなのかは分からなかった。

 さて僕は2019年7月6日に自分が死ぬということをかなり前から知っていた。運命の天球儀が示す軌道は僕がこの日に没することを、運命の水晶玉に浮かぶヴィジョンは愛車の前半分がぺっちゃんこになることを伝えていた。逆算的に生活を送った。余命を宣告された人みたいに。

 一方で7月6日が過ぎても世界は流れ続けるという真実を信用していて、信用しているがゆえに安心していた。いついつに自分(の人生)が終わるということをあまり重く考えていなかった。それは大河のある区間だけ下るようなものだと。もしくは列車に乗ったようなものだと。岐阜駅から名古屋駅行きの快速に乗ったようなものだと。自分がここで降りるというだけで線路は東京まで続いているのだと。だと。

 今夜22時頃に公開されるよう予約していた記事があった。このページは更新を終えますという内容だ。しかし歯車が狂い死は回避された。そのせいで今この遺言ではない文章を書いている。これからどうすればいいのだというのが正直な気持ち。小さなパラダイムシフト。ここからアディショナルタイムに入るのか。

 ある時。悪魔か神様かがやってきて一週間後に死にますとか今日で人生が終わりですなどと言ってきても「あらあら」ぐらいのテンションだろう。この「あらあら」は、豚しゃぶを作ってから胡麻ドレがないことに気付いた時の「あらー!」と比べればその3分の1ほどの規模だ。