美しくないものに対する寛容さもまた美しさではないか

 

 と、ある時思った。その次に「美しくないものに対する寛容さ」には「美しくなさそうなものから美しさを見つけられる(取り出せる)センス」が必要なのではとも思った。思えはしたけれど、未だにその寛容さを完全に体得することは出来ていない。

 そもそも美しさが、あれはダメ、これは違う、と切り捨てることと親和性が高いのは「美しさ」という単語そのものがどことなく帯びている西洋的な風合いによるところが大きいように感じる。これはダメだ!美しくない!と断ずる行為は気高く美しい感じがする。ある一定の水準があって、そこに基づいて判断、まさに審美しているわけだ。その判断の総体が美学だろう。内に向けられる批評的な態度などはまさに気高い。芸術家が自らの表現を前にこれは違う!と断ずる姿はそれそのものが一つの芸術と言っていい。

 が、美しくなくてもいいじゃないかという姿勢もまた美しいものであることに気づいた。寛容さだ。この美しさはどちらかといえば東洋的な響きがある。どこか母性的で、しなやかさ――厳密で固い言い方をすれば許容範囲の広さ――が伴っている感じがある。それ固有のそれらしさを美しさと認める態度、またはそれらしさの中に普遍的な美しさを感じとるまなざし。そこには寛容さが伴われている。絶対的な到達点に対して、目指すというより参照するような触れ合い。これもまた清くたおやかな美学だと感じた。寛容であるという美しさ、美しさに気づける美しさ。これから備えていきたい。

 今年は美しく生きたい。美しく受容したい。僕の言う美しさとは僕が美しいと感じることを指す。それでいいと思う。それぞれの人間がそれぞれの美しさに向かっていけばいい。それぞれにそれぞれの美しさがある。絶対的に共通している/させるべきものは少なくていい、「他者に対してあれこれ言うのは醜い行為である」という認識ぐらいで。