最近の自分が写真について考えていること

 「パンを焼くのと写真を焼くの、どっちが人を幸せにするのだろうか」、パンな気がしてきてる。

 それぞれ怖ろしい速度で値上がりを続けているものの、「ひと箱1000円になったらやめる」のタバコとは違って、写真フィルムは銘柄自体が絶滅していってる。高くても手に入るだけタバコの方がマシかもしれない。

 35ミリフィルムを日常に使うことをやめて半年。カメラの方も全部売っ払ってしまっていいのではないか、と断捨離の悪魔がささやく。自分でも信じられないことだけど愛着の4分の1ほどが霧散してしまった気がする。

 

 ライカって中途半端に古いモデルを使い続けてても、そこに「思想」が感じられるし良いな。*1 キヤノンニコンデジイチだとそうはいかない、ひと昔ふた昔前のモデルはやっぱりどことなく「型落ち」って感じしちゃうし。これはクルマだとメルセデスBMWにも同じことが言えると私は勝手に思っている。今から数えて20年以上前にリリースされたモデルだと「思想」が漂い始めるのだけれど、20年経つか経たないかぐらいのモデル——少し具体的に言うなら枝豆みたいな目のBMWや瓢箪みたいな目のメルセデス——を見ると「型落ち」だと私が勝手に思ってしまう。

 ライカの中途半端に古いモデルに対する好感は、クルマで例えるならラテン車に向けられるそれに近い。めちゃめちゃ古いわけでもないけど、かといって決して新しいわけではないようなクルマ——具体的に言うならアルファロメオ159、初代プジョー308とか——が、「一周まわって逆にめちゃめちゃオシャレ」みたいな。あえてこれに乗ってる感・好きで乗ってる感を私が勝手に感じてしまう。もちろんメルセデスBMWだって、好きだからずっと乗り続けているオーナーもいるんだけど。

 

 手元に唯一残った動品FDマウント一眼レフCANON NEW F-1と違い、かつての愛機CANON A-1は逆巻きだったことを思い出した。軍艦部をはじめとするメカメカしさの系譜という意味においては、CANON A-1の後継機はNIKON F4だと思っている。

 『ここで「キヤノンA-1」が非常な力を発揮するわけなのです。フィルムさえちゃんと入っていさえすれば写真ができあがる、プログラムAE、コンピューターカメラ。威力です。(中略)さらに「35~70ミリズームレンズ」装着の「キヤノンA-1」、もうこれは、「にんにく」のない国のドラキュラのごとき魔力を発揮するわけであります。』(朝日ソノラマキヤノンA-1のすべて』より)

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 今気付いたけど、1枚目と2枚目って別の個体かも。

 New FD135mm F2.8は見た目がすらっとしててきれいなレンズだった。135ミリのF2.8でフィルター径52ミリってすごくない?マニュアルフォーカスだったから実現できたコンパクトさなのかな。

 A-1に旧FDレンズの組み合わせはそんなに違和感ないけど、例えばT90にFLレンズの組み合わせだと何となく玄人な感じがしてグッとくる。

 

 

 

*1:国産デジタルカメラなら未だにOLYMPUS STYLUS-1やRIOCH GXRなんかを使い続けてる人に「思想」を感じてしまう