平行世界の私

 

 よくカメラを片手に歩く。いくつかある趣味のなかで大きいウエイトを占めている。

 分かれ道に差し掛かった時や漢字の「目」「田」みたいな区画に足を踏み入れた時、どの道を選ぶか悩む。しゅぱぱっと分身してローラー作戦をとるのが理想なんだけどそれは出来ないから、まあどれかを選ぶことになる。するとその区域全部歩きつぶすうちに(歩く道、撮る風景に)順序が出来てしまう。同じ川に二度入れないのと同じで時間に対して縦に見れば先ほど選ばれなかった道(後で選ばれる道)は、もはや選択肢として提示されていた時のそれと同じ道ではない。

 2つ以上から選び取るさい最初に選ばなかった方に後から取り掛かれるのはまだ幸せなことで、ほとんどの選択はどちらかひとつを選ぶしかない。砂漠に埋まっている化石みたいに……

 どちらか一つを選び取るしかないというのはまさしく、人生にも言えることだ(僕がこのページですぐに人生とか言うのにはもう慣れてもらうしかない)。人生は選択の連続。大小様々な選択判断の積み重ね、主体的にしろ意識的にしろそれぞれそうでないにしろ何兆回、何億回と選び取った結果が今のこれなのだ。ひとつ違っていたら今頃墓の下にいたかもしれない、今頃人の上にいたかもしれない。歴史には無い「もし」を見られる道具を使えば「ああ、あそこでハンバーグじゃなくてロールキャベツにしておくんだった……」などと、膝から崩れ落ちた地面に何度も拳を振り下ろし唇を噛んで涙を流すこともあるだろう。

 

 小さい頃住んでいたところに行った。都心部から電車で20分ぐらいの土地だ。快速と各停がとまる駅があって国道が通っている。川があって小さな山があって、小さい商店街にショッピングセンター。小学校も中学校も高校と昔からの宅地と、あとのほとんどは住宅街が占める土地だ。駅を出た僕はかつての住所に向けて歩いてみることにした。

 思考の奔流。その堰は急に開けられた。すこし歩いた頃、そこでずっと育ったであろうその土地の言葉遣いの、自分と同じぐらいの年齢の人間とすれ違った。なんのことはない。そりゃすれ違いもする、しかしこの時は電撃が走った。その瞬間にもしかしたら彼と友達だったかもしれないという考えが、頭の外から誰かに吹き込まれたかのように突然起こったのだ。いやそれどころか今のあの人は僕かもしれないぞ、と本能ぐらい深いところで心の一部がささやいた。もしかしたら僕は視界に広がる高架下の中華料理屋や国道沿いのコインランドリーやこれらをうんざりするほど見ていたかもしれない。そこから遠く離れた今の居所に日頃から厭きているように。

 僕は平行世界の自分と交差した。彼はこの道――自宅と駅の最短ルート――を何度も何度も何度も歩き、生活をしている。彼は目を瞑っていてもトレース出来るその道筋に立ち並ぶマンションや家並み、駅前の学習塾、ファストフード、ちょっとした広場の花壇や時計にまでうんざりして、機嫌によっては憎悪すら抱くことがある。

 ふと気付くとあたりの風景は強烈な既視感に包まれていた。僕は濃い色の新しいアスファルトの上で、この自分が歩まなかった人生と選ばなかった選択(の積み重なったもの)を確かに垣間見たのだった。振り返る、彼は僕が来た道を反対に歩いていく。どんどん小さくなる背中を見やった。肩にはカメラではなく大柄なビジネスバッグが掛けられていた。やがて平行世界の僕、僕だったかもしれない人は駅前の大したことのない人混みにまぎれていった。