自己連続感の喪失

 

 都市伝説とか怖い話にハマっていた時期があった。14歳位だったと思う。夜な夜なネットで見ては怖い思いをしたり友達と話し合って一緒に怖がったりした。「白いソアラ」「アロエビクスマン(これは好きだった)」などなど。なので都市伝説の文字列を見ると恐怖よりは懐かしさの感情がおこる。

  今でも夜に見て怖いものといえば行方不明者や行旅死亡人の情報提供を呼び掛けるページ。行方不明の人は一体どこに行ってしまったのだろうね……。残された人が心配するといけないから誰かがいなくなってもすぐ見つけられるように日本がもっと狭かったらよかったのにねーと思ったりもする。でも見つかりたくない人もいたり、まあそれぞれ事情があるんだろう。僕も蒸発したい時あるし。誰も自分を知らない土地へふと行ってしまいたい欲ってどの人にも少なからずある。なんにしても、怖いと判っているものの方が、それがそもそも何なのか分からないものより怖くない(ある意味安心する)のだなあとつくづく思う。

 都市伝説ではないんだけど「地下の丸穴」という怖い話があって、これはいつみてもぞっとする。怖いというより、この話に現実味を感じて頭がおかしくなりそうになる。内容を知らない人は是非調べて読んで欲しい。かいつまんで説明すると、肝試しで入った施設の地下にあった穴に入ったら全くの別人として目覚めた、という話なんだけど。でも短くてサッと読めるから原文を読むべし。僕はこれを読むたびに今の自分が過去の自分と同一人物かどうかの自信が持てなくなる。普段からその自信に今一つ欠けるんだけど、それをいやおうなしに再認識させられる文章なのだ。それから、自分が失踪しないか不安になってくる。行方不明になりそうで、いてもたってもいられなくなる。こんなことしてる場合じゃないと我に返ってどこかへ飛び出して行ってしまいそうで。

 朝起きたら迷うことなく洗面所に行き自分の歯ブラシを選んでそれから自分の服を選ぶけど、それがそもそもおかしい。なんで分かるんだよ。鏡の中で全く知らない見覚えのない男が歯を磨いていることがある。仕方ないから寝癖を直してみたりするけど、僕はこんな顔だったっけなーと訝しむ。自分が連続して存在している確信の無さ、自信の無さだ。自己同一性、時間的連続性の自覚欠如とでも言えようか。「自己連続感」と仮に名付けている、これの喪失だ。自明性の喪失とも近いと言えるかもしれない。「あるものが疑う余地無くそれそのものであること」、世界の大前提がガラガラと崩壊した状態である。普段はそのガラガラを見ないように、あまり深いことを考えないようにしている。気力がある時は能動的に、瞬間瞬間に自分が思う自分であり続けようという意識でもって時間的連続性を獲得しようとしている。

 自己同一性に対する疑いが生じると昔読んだ解離性健忘の症例を思い出してしまったりする。電車で学校に向かう途中、自分が何者でどこへ向かっているのかが分からなくなり終着駅で駅員に保護された生徒のケースがあった。解離性健忘に限って言えば、精神的負荷が極めて大きい環境や事象が主な原因だ。なので僕は健忘が起こることを恐れて「毎日が楽しいなー!」「生まれてきてよかった!」などと自分に言い聞かせるように都度都度口に出すようにしていた時期があった。今思えばこれはこれでなんだか病的だねえ。

 身分を証明するものが必要とされることがしばしばある。運転免許証だったり保険証、住民票の写しだったりパスポートだったり。それらを提出しながら、なんで書類が無いと認められないんだ?とか、こんな書類を出すだけで何故認めてくれるんだ?と毎回妙な気分になる。だいたい財布に入っている運転免許証が自分のモノだと、どうやって証明すればいいんだ?その疑問が浮かんでくると自動車の手続き記憶(運転の仕方)も分かんなくなりそうになる。その辺の子どもに運転免許証をあげて、今からお前は僕だ!と代わってもらいたくなることもある。そうなると、その子の自我は宙に浮き僕は僕という役目を終え空の器としてただ在るだけになるだろう。すると、人間をやめて砂防堰堤として振る舞うことも、その年最後の入道雲になることも意識次第で可能になるのだ。想像するだけでわくわくしてくる。

 誰しも子どもの時に、自分以外の周りの人間は全部幽霊/ロボット/宇宙人なんじゃないかと考えたことがあるだろう。「水槽の脳」仮説や沼男(Swampman)みたいな話が好きな人は、もしかしたらこれは真実なのでは……と考えたことが絶対に絶対にあるはずだ。それら概念の本当の恐ろしさはそれらを完全に否定することが出来ない点にある。「いやいや、んなこたねえよ」と思う力、ある一点から染み出た非現実的な考えを思考のテーブルから排除する力、が弱い(大人になっても育ち切らなかった)人が統合失調を起こすんだと思う。だから、話は飛ぶけど「トゥルーマン・ショー」も統合失調の人に見せちゃダメだと思う。それはそれとして。我々は日々の生活の中でいつ地下の丸穴をくぐっていてもおかしくないのだ、現況に対する疑いの気持ちが萎えきっているだけで(自明性が「機能」しているだけで)。普通の顔で昨日も明日も同じように暮らしている皆の方が狂っているわけである。

 元々は全然違う県で違う職業で違う家族と暮らしていたのに、ある日、記憶を失ったり抜かれたりして、今ここで「暮らさせられている」のかもしれない。その可能性を一体だれが否定できよう?本来自分がどういう人間だったのか、人間以外の何かだったかをも含めて、それを思い出すことはもはや完全に出来ないのだ。時々首をもたげる蒸発したい欲は、もしかしたら元いた場所に帰りたい欲なのかもしれない。

 

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