田舎か都会か

 

 ここ数日はずっと、都会と田舎をどう比べてどう書き表そうか悩んでいた。今日はとりあえずの文章を置いておく。また思うことがまとまったら、また書くことにする。文章のタイトルは「都会か田舎か」にしてもよかったんだけど「田舎のナントカより……」のことわざが田舎から始まっているのでそれに従い「田舎か都会か」とした。

 言いたかったのは、都会が進んでいてよいもので、田舎が遅れていてわるいもの、みたいな風潮(僕はこれを折に触れて感じる)が本当にくだらないということ。力や人や富が集まる所というものはどうしても、ひとつの国が成長するうちに生まれるものだ。田舎は都会になる途中の土地、都会に成れなかった土地みたいな考え方には先進国が他の国を(かつては後進国とか)発展途上国などと称するに似た、醜い押しつけを感じる。

 都会を進んでいる土地、田舎を遅れている土地、と解釈するならかつて京都はお刺身田舎、お刺身後進国だった。今では田舎呼ばわりされている海岸の県、土地は魚料理の都会である。その先進後進、都会田舎を切り分けた物(物流)の格差は今ではかなり埋められた。割とどこに住んでいてもアマゾンプライムの会員だったら注文したものが次の日には届くのと一緒で、京都でも味はさておいてお刺身が食べられるようになった。

 格差というものも、やはりどうしても生まれるものだ。何かが伝わるのに一瞬ということはないからだ。ある土地を中心とした同心円があって、同じ円では似た言葉が使われているみたいな話がある。(固有名詞を使わずに説明することが難しいけど、言葉はある中心から波紋のように全国に広まったという説があるということです。)ひと昔前のファッションや言葉遣いが、田舎で未だに生きていることは時々テレビなんかでも笑いものにされる。公共の電波に乗せるべきこととは到底思えない幼稚な悪意だと思うけど。その格差というやつの主役は時代と共に移り変わる。かつて物(物流)だったのが情報に、そして今は文化が時代の格差だと、僕は思っている。

 コンサートやライブ、美術展や写真展は都会、人が多く集まるところで開催されることがほとんどだ。情報の格差はインターネットの普及によってかなり埋められたと言える。電波さえ入れば好きな絵画、写真、ライブ映像をもディスプレイ上に見ることが出来る。しかし、肌ざわり(その事象の表層質感、手触り)だとか雰囲気を感じるためには、やはりその場へ行かないといけない。その「その場」は都会に発生することが多いのだ。

 (少し脱線するけど、ディスプレイは凹凸を持たない。これは大きな致命的欠陥だと思う。上下左右に広がる空間に加えて音まで、スマホやパソコンは感じさせてくれるが、でこぼこや多分体温も彼らは一切伝えることが出来ない。伝え漏れがあることとその質を一体どれだけの人が考えに入れているだろうか)

 どうにも考えがまとまらなかったのには、ある個人的な理由があったのだと気付いた。それを説明する気は起きないけど。僕と同じような人がこの国のボリューム層だと勝手に思っている。だらだらとまとまりなく続いたけど「都会は結構、田舎も大いに結構」、この一言で済むことでした。そういうことなんです。

 

 たまには森の中で深呼吸を。

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