独特であることの美しさ

 

 芸術家にしろ学者にしろ誰かの劣化コピーになるぐらいなら、程度が低くても独特である方が美しいと思う。

 人に真似されることって本当に不愉快。昔から多い。特に表現に関することだと悔しいし腹立たしい。言わずもがな、当然僕も、意識するしないに関わらず誰かの影響を受けている。でも僕なりの解釈と咀嚼を交えて、自分のものにしようと常に試みているつもりだ。

 そう、そうなんだよ、僕が彼ら彼女らに対して本当に腹を立てていることは真似されるということそのものよりも、僕や誰かから出たものをそのまま、あたかも自分から出てきたものであるかのように振る舞うことなんだ。真に程度が低いことというのはこういう行為を指すのだ。解釈や咀嚼、それらを試みること、それどころかそれらを知りすらしないような杜撰かつ稚拙な思考回路・精神構造に燃え尽きることのない憤りを覚える。彼らを赦すことが出来ない自分にもいらいらしてくる。

  言葉(遣い)こそがその人をその人にしていくものだと考えている。語法が。その人ならではの語彙や語法や語順(順序)、文脈があって、それらがその人をその人たらしめているんだと。最初にそこを認識しないと文脈が始まらない。そして自分で自分を育てていくこと。その人がその人らしくあることがそれぞれ美しい。安易に借り物に頼ることは美しくない。ダメダメでもいいんだよ。

 自分が自分であること、という感覚を持つことは自己肯定感を育て守る意味も持ち合わせていると考えられる。僕は自分で自分のことを天然記念物の絶滅危惧種だと思っている。ので自己肯定感はおおむね健やかであるはずだ。けれど肥大は避けなければならない。俗の動物に堕ちるか、人間であり続けるか(それは意識し続けられることによって維持される)、人間を超えた超人間に成れるか。ひと時ひと時の自意識が我々の存在を左右する。

 何かを褒める時に別の何かを貶すのは三流のやること。逆もまた然りで、あるものを貶すときに別の優れた何かを引き合いに出すこともあまりスマートとは言えない。これは人間に対しても当てはまると思う。自分を褒める時に他の誰かの劣っている点と比べたり、何かをコケにするのは、間違った自己肯定育成だと考えている。あの人はあんなにああなのに自分はこんなにこう……というように落ち込む必要はない(必要はないと言われてやめられれば苦労はないんだろうけどね)。相対評価は人を殺す力を持っている。

 独特であること(の美しさ)が求められるという点で、学者は芸術家に近いと時々感じる。そして、一部の人間しかスターになれないというところも。僕らが知っているほとんどの学者や芸術家は名前をあげた人で、それは全体のほんの一部に過ぎない。彼らスターの下には無数で無名の学者や芸術家が沢山いる。死屍累々の山頂、わずかな領域の、日が当たるところにスターは立っているのだ。

 名をあげたかそうでないか、なんていうのは極めて運に近いと思う。時流と合うか否か。でも本来はそんなことはどうだっていい。スターになんかならなくていい。時代となんか寝るな!独特であることの美しさ。それぞれがそれぞれ育てていけばいいと思うし、育てたくない人は育てなくていい。